かならず幸せになれるいきもの

幸せな子ども時代を過ごす子どもを増殖させるための哲学。(旧:それでも幸せな人はいるから)

スポンサードリンク

すべての子どもが求めていること

それは、

「私を育てて!」

 ということです。

 

私は、学校生活をみんなと楽しく過ごせない子どもたちの言動や行動は、すべて「育ちたいという悲鳴」なのではないかと感じました。
もし、その「育ちたい」という切ない悲鳴を、すべての教師が聞き取れたなら……。

 

 昨日、周囲の環境に呑まれて、友達とつるんで授業から抜け出していた子が。
教師が近づくと「一番殺害したい奴が来た」と言う子が。

 

今日になって、おりこうさんになっている。
これは、おとといまであった姿でした。

 

今日は、周りを導くような言葉掛けをしたり、裏紙を使って作っていた武器を「こんなのはもういらないから捨てよう」と言ったり、学習の時間になったら「早く勉強しよう」と言ったり……昨日の彼はなんだったのだろうと思いました。

私たちが受け取らなければいけないのは、どちらの彼なのでしょうか。

 

彼は、本当はどうしたいのか?

私には、「本当はやりたい、頑張りたい、よく育ちたい」という風に見えました。
だけど、どうしても自分を止められないのです。

止めたい自分を止められないという心境は、どんな心境なのでしょうか。

大人にきちんと注意してほしいと思うだろうか。
身動きできないように閉じ込めてほしいと思うだろうか。
放任して好きなことだけさせてほしいと思うだろうか。

そう思うところはあると思います。

たけど、その理由は、注意されたいからではないし、閉じ込められたいからではないし、放任されたいからではないでしょう。

 

そのすべては、

僕を正しい方に導いてほしいから

です。

 

子どもたちは、勉強させてほしい、活動させてほしい、能力を身に付けさせてほしい、友達と仲良くさせてほしい、正しい自分でいさせてほしいと強く願っていると思います。

その気持ちの全部をたとえ乱暴であっても言葉と身体で示しているのでしょう。

 

当然に、社会的に許されない行動は指導される必要があります。
「○○くん、そういうことをしてはいけません」
「○○くん、ちゃんとしないと将来困るよ」
「○○くん、そんなことしたら友達がいなくなりますよ」

 

こんな風に指導をしたとき、子どもが心で思っていることはなんでしょう。
「うるせーなー」
「だから、なんだよ」
「そんなのオレの勝手だろ」
こう思っているかもしれないし、実際にそんなことを口にするときもあります。
 
けれど、私は子どもが本当に声に出していいたいことは、
「だから、助けて」
だと思います。

だったら、言うことを聞きなさい!と思ってしまうところですが……そこを、教え導く技術を提供することが我々の仕事ですよね。

私たちは、対症療法的に指導するためにいる部分もありますが、それよりは、彼らの特性をつかんで、正しい振る舞いができるように導くことなのでしょう。
 
どんなに、素晴らしい注意をしても、正しい振る舞いがなかなかできない子どもはいます。
そして、特性によっては、どんなに大人たちが回り道をして、つまずきのないようにお膳立てして、温かい雰囲気で包んだとしてもできないのです。
 
それでも、そうしたとき、一番困っているのは、子どもです。

その視点を保つには、「育ちたいという叫び」に気づかなければなりません。
育ちたくない人間はいませんよね。
同時に、彼らを振り向かせるための技術の習得も欠かせません。
 

子どもたちは、結局「学習させてくれる、学ばせてくれる、良い自分を引き出してくれる」教師が好きです。
子どもの育ちたい気持ちを信じて、何度でも働きかけていくわけです。
表に出てくる言葉や行動に惑わされるのではなく。
 
私たちは、ただ、「そう」とうなずいて。
子どもたちの学びを準備し、「さぁ」と笑顔で教室へ手招きをして。

スポンサードリンク