それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

スポンサードリンク

「ダメなものはダメ」は通るか

気になる指導言の一つに「ダメなものはダメ」があります。

 

規範意識を育むために用いられる言葉だと思います。

規範意識は、いじめをなくす観点からも大切だとされていますね。

これは、結局、「上司の指示に従うなどの社会生活」や、「法律などのルールを守るといった人間生活」のためになる力です。

 

しかし、多様性の時代に、「ダメなものはダメ」だけでは子どもたちに通用しないと感じています。理由の一つは、よくも悪くも犯罪行為も含め、さまざまな情報がメディアを通しても通さなくても無尽蔵にに溢れているためです。子どもたちは、何がどれくらいどんな風にダメなのか、リアルをリアルに捉えることが上手くない印象を受けます。

 

そのことは、友だちが本当は困っていても、現実を真摯に捉えられず、相手のことを想像できなかったり、共感できなかったりすることにつながっていると思います。

 

私が、川崎に献花をしに行って感じたのは「こうした昼間穏やかな日差しが注ぎ、風がやわらかに吹く場所で、夜中寒くて暗い中で子どもが死ぬのだ」という報道の画だけでは分からない、日常の風景にある異様な非日常でした。私の実感、リアルはこれでした。

けれど、事件は日常の中で起こった事実なわけです。

子どもたちはあの出来事をどれくらいリアルに捉えれれているでしょうか。 

私は子どもたちを見ていて、実際のリアルさ、や他者の感じた感覚を想像することが、できていないように感じます。

だから、ソーシャルスキルやロールプレイなどの具体的な体験を補完する指導が注目されるようになったのだなと感じました。

 

子どもたちに「ダメなものはダメ」だと伝えたところで、子どもたちはその「ダメさ」が想像できないので、その「ダメさ」が伝わらないと思うのです。

 

たとえば、声の大きさ、表情、ボディランゲージでいかに怒っている度合いが大きいか示し、その行為がいかに悪いかを示すことで、そのとき行動をやめさせたり、行動を改善させることはできると思います。しかし、それが継続的にはなかなか改善されないと思います。

そして、そうした、印象の激しい指導を繰り返すうちに、子どもに伝わるようになるのは「なんか怒っているな」「うるさいな」ってことだけです。

 

「ダメなものはダメ」で納得して行動をやめるのは、発達段階的に低・中学年くらいまででしょう。「ダメなものはダメ」といった、怒られたり注意されたりすることによって行動を変えるのは、道徳性の発達の中でも低い判断基準です(第一段階)。怒られるからやらないということに近いですね。やはり、だんだんと発達段階に合わせて変えていかなければならないし、そもそも、その発達段階にあった成長のための指導を子どもたちは求めていると思います。

高学年は「ダメなものはダメ」の先に行きたいということです。そのため、外の力からの注意で規範を守らせ、抑止するのは、低・中学年までが妥当だと考えられます。 自立心が高まる高学年に近づくほど、この「ダメなものはダメ」は響かなくなっていくわけです。

 

では、高学年にはどのような指導が必要になってくるかと言うと、「自分で考え、行動を選択する力」を意識させて身に付けさせることが大切だと考えられます。

 

場合によっては、高学年に自分で考えてほしいという思いも込めて「ダメなものはダメ」と言っているところもあるでしょう。しかし、その場合、考えるというところまでさせなければならないと思います。本当に考える必要性を感じ、考えてほしいならば、「どうしてだと思う?」と聞かなくてはダメでしょう。

 

でも、そもそも規範を守る根拠に「ダメだから」以外の背景があると分かっている人は少ないのかもしれません。そういう人は、子どもが「はい」とか「うん」とか「もうしません」とか「次から気をつけます」とか「分かりました」とか言うまで話し続け、子どもが‟正しい反応”をしさえすれば、説教タイムから解放しているからです。

 

もし、正しく注意ができていたなら、子どもは「教えてもらった」という感覚が少なからずあります。恨みっこなしで、指導は終わるはずです。

(あまりにも、かけ離れた指導をされ続けた子どもは、もう大人が何を言っても入らないところまで行ってしまうところもありますが。)

 

発達段階にあった指導をするために、「実態をつかむ」必要があります。

◎何を知っていて何を知らないかの実態をつかむ。

『指導の基本的な流れ』

流れとしては、よくない行為をしてしまったときに、

1.ダメと知っているか

【知らない→2へ】

【知っている→3へ】

 

 2.ダメなことだと教える

【教えたら→3へ】 

 

3.なぜダメか考えさせる

【考えて答えが出なかった、または考えても答えが少しズレていた→4へ】

【考えて大きくはずれた答えでなかった→5へ】

 

4.考える観点、ヒントなどを与える。それでも答えが出にくかった場合頃合いを見て一般的な理由を教える

【理由についてのやりとりを行い、理由に納得したら→6へ】

 

5.なぜしてしまったかを考えさせる

【原因が分かったら→7へ】

 

6.次から気を付けるように促し日常生活へ戻す

今回は、ダメな理由を知らなかったので、次から気を付けてというのが教育的愛情だと思います。また、謝罪が必要な場合などは、「今しなければいけないことはある?」などと問い、行動を促します。

 

7.次に似た感情や状況になったらどうしたらいいか理解させる

具体的なアクションを示し、練習可能なものなら練習させて、誰かを傷つけるようなことや、たくさんの他人の迷惑になってしまうようなことが起こらないように促し、日常生活に返します。

 

ちょっと話が逸れるのですが、

こんなに丁寧するの?という声もあるかもしれません。規範意識の根本、特になぜいけないかなどの理由の指導は家庭で、と捉えている方も多いかもしれません。

でも、言ってしまえば、問題となるのは、

「それで子どもに力をつけられるんですね?」

「子どもが成長するんですね?」

っていうところです。

 

はっきり言ってしまえば、家庭に教育力がない家庭が増えています。というより、多様化している社会の中で、多様化している社会で育った世代の人たちに、一般的などの他人をも思いやる規範意識を指導するのは簡単なことではないと思います。

もちろん、上手に「人間とは」といった視点で、生きていく上で大切なことを指導してくださっている家庭も少なくないです。

ただ、そうした家庭とそうでない家庭がある実情があるのに、家庭のせいにするのはずいぶん意地悪というか怠慢だと思います。

ならば、きちんと家庭に働きかけ、協力して子どもを伸ばしていかなければいけません。

それでも、ときには家庭に働きかけないで文句ばかり言っている人もいるので、不思議です。本気で子どもを伸ばす気持ちを誰もがもち、それこそ、それを我々の行動規範と捉えてほしいです。

 

話しを戻します。

流れの中のポイントは、1、3、5などの「考えさせる」ところです。

「考えさせなければ」その子はずっと他律心で生きていくしかありません。

(高学年は、ギャング・エイジ等、そういう傾向が強いからこそ、大人が気づいて、自分育ちをさせてあげなければならないと思います。)

 

また、「実態をつかむ」というところで、

◎「子どもたちの‟成長したいというエネルギー”をつかむ」必要があります。

人間は一生成長したい生き物だと思います。

たとえば、高学年は本当は「自分で考えてやりたい」ってニーズがあるかもしれないということです。細かくは個々によりますが、そういう子も出てくるはずです。

 

それなのに「ダメなものはダメ」だけの注意を繰り返すした場合、どうなるかというと、「ダメだ」という言い方に影響力がある人の前では言うことを聞くけれど、それ以外の人の前では好き勝手やるようになります。

先ほど挙げた、印象の激しい指導の人と、自分がすごいと思っている人や好みの性格や容姿の人の「ダメ」は聞くけれど、それ以外の人のダメは聞かなくなります。

それは、行動規律が自分の中ではなく自分の外にあり、自制、自問、自分を律するということをしていないから、他律だからです。

 

でも、よーく指導の場面を思い出してみると、子どもたちはやっぱりエネルギーがあるし、成長したいという思いがあるから、注意すると「は?」とか「なんで?」とか「どうして?」とか言っていませんか?

これは、要するに「教えてほしい」という風に捉えられないでしょうか。

分からないから「は?」とか「なんで?」とか言うのです。もちろん反抗心も0ではないと思います。

けれど、本当やリアルをもっと子どもはちゃんと教えてほしいのではないでしょうか。もし、大人が本当のリアルのなぜダメなことがダメなのか、そこを想像できているならば、伝えてあげるべきです。言ってしまえば、規範意識や法律がある「意味」を考えたことのない大人が注意しているから、応えられないのではないかと思ってしまいます。

 

応えられなかった先に行ってしまっている場合は、「は?」もなく、反応が薄かったり、無視したり、避けてきたり、流したりしてくると思います。

 

総じて、「ダメなものはダメ」でやめている段階は、まだ幼稚な部分が残っていると思います。その間は、常に誰かが見ていて、「ダメなものはダメ」とアナウンスし続けなければなりません。しかし、その度に考えさせることができたら、いずれ、自分自身で考える習慣ができ、自分で考えて行動を抑制することができるかもしれません。

考えて行動する力がつけば、そうそう「ダメ」なことはしなくなっていきます。

そして、一度自分で考えるという視点をもつことができれば、「ダメだ」と指摘された時点で「なぜ悪いのだろう?」と考えることができるようになるかもしれません。

 

最後に、

 P108子どもを被害者にも加害者にもしない 藤井誠二 徳間文庫カレッジ 

引用して閉じたいと思います。

●学校を治外法権にしてはいけない

暴力をふるったら、とりわけ弱い者に対して暴力をふるったら、社会的なペナルティを受けるということを教師も生徒も学んでほしいのです。

●「禁止」は伝わらない

援助交際はOK」という、学校や家庭では一見まじめな女の子たちが珍しくないことはよく知られています。全体的に「売春」については敷居が低い。そういう彼女たちに、援助交際は絶対にやっちゃダメだという善悪論を説いてもどれほどの実効性があるでしょうか。

中略

「やったらこうなる場合がある」という例を事細かにあげていくのはどうでしょうか。

中略

そのリスク情報を伝えていって、子ども取捨選択をしていくことしか最終的にはないんです。

女子小学生がたちが渋谷で騙されて、赤坂で監禁されていた事件がありました。掃除してくれるだけで一万円なんて、こんな世知辛い世の中であるはずがない。

中略

そういうリスクや危険があることを情報として常に伝え、そこに接近せず、自分で自分を守ることを教えていくことが大切だと思うのです。「渋谷に行っちゃいけない」と諭しても行く子は行く。

中略

最終的には、自分で危険に近づかない、自分自身で危険との距離を取る、といったように自分自身をコントロールするしかありません。

 

少し過大解釈になる部分もありますが、学校での規範を守らせ、人間として社会での正しい振る舞いを行えるようにすることは、子どもたちを将来の危険から守ることにつながると思います。

 

人を大切にするということや、就職でも規律を守る大切さを行動で示せるかもしれません。

また、自分をコントロールする力は、純粋に犯罪などといった危険から身を守るためにも必要になってきます。

 

ですから、「ダメなものはダメ」が通ったとしても、これで通し続けることに、子どもたちに有用な点は、私はないと思っています。

 

当たり前のことですが、「ダメなものはダメ」を越えた「考えさせる」規範意識の指導の視点を忘れずに、子どもとかかわってほしいです。

 

大多数のできている人たちすみません。できていない人のモデルとして、活躍してただけたらと思います。

  

 参考:

心理学COCOROの法則: 001117)コールバーグの道徳性発達の6段階 アーカイブ

スポンサードリンク