それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

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相手にOKを出せて、はじめて自分にもOKを出せる(上)

最近「異質を認める」がキーワードとなっている。このキーワードにいくための変遷はあって、これまでの省察が「異質を認める」という最適解に辿り着いた。

(書いていたら止まらなくなってしまったので、ごちゃーっとそのまま載せる)

1.他人がいない子どもたち

私は、子どもを見ていて、とにかく子どもたちの中には他人が存在しないと思った。相手の気持ちになれない、共感できない。だから、考えられない、自分のしたい動作をしてしまう、相手が悲しんでいても怒っていても、その原因が自分でも、無責任を誇示することができる。

 

だって、関係ないから、勝手にあんたがそうなったんでしょ

って話だ。

 

けれど、そう思うのも仕方ない。

この世界に「自分以外の人間がいるということを知らない」のだから。

そして、よく考えないから、そのときそのときの感情に流される。

少し立ち止まって自分と相手を比較できたなら、自分と相手が違うことが分かって、自分じゃない存在を認識できるのに。

 

でも、画面を見つめなきゃいけない世界は速すぎて、そんなことより手軽に前頭葉を錯覚させる使い捨ての刺激を求めて忙しい。人差し指を弾いてタイムスリップだ(その時間の使い方、本当にすべってるぜ?)。

誰かを悲しませたことも怒らせたことも、目の前のLEDで上書きできるし、毎度毎度の観客動員数歴代一位で払拭できる。

残るのは秒殺の感動と、次の刺激を求めるドーパミン

 

だから、また急がなきゃいけない、次から次に情報を飲み込んで、コンビニエンスを駆使して、いち早くかつ少しでも多く、「無駄じゃなかった」とツイートしなければいけない。

 

そして、いいかげん経ってから問題に気づく。

たとえるなら、帰ってきてすぐに写真を見ないから、撮った写真がすべてピンボケだったことに今は気づかない。すぐに気づいていれば、すぐに思い出して忘れない景色にできた。

 

そうやって、私たちは、大切だったはずの「今」を喪失していく。

 

2.「みんなを大切にする」

そうして、私は「他人がいない子どもたち」に気がついて、「みんなを大切にする」という考えを思いついた。

「みんな」には「1.友だち、2.大人、3.自分」が含まれる。

「自分を忘れてはいけない」というところがミソだし。

「1と2が他人」というところもミソだ。

結局、人は自分ためにしか生きられないのだから、最初と次が他人ぐらいで丁度良いと思う

 

そして、事実その方がバックが多い。

そこから浮かんだ言葉は「他人を大切にすることが自分を大切にする仕組み」だ。

いち早くこれに気づかなければならないと思った。

 

3.慣れ親しんだ注意

けれど、慣れ親しんだ注意は、私たちの分離を許した。

「自分のことは自分でしなさい!」

「自分がされて嫌なことは相手にもしない!」

「自分ができていないのに相手に注意しない!」

この慣れ親しんだ注意の先にあるのは、無関心と孤独と利己主義。

ただ狙い通り、見事に人が争わなくなった。だって、ぶつからないから。

でも、普通「自分のことは自分だけではできないし、自分がされて嫌だから相手に嫌なことをしないわけではないし、『自分ができないこと』は誰もが苦手なことなときもあって、実際はみんなで気をつけるしかないことの方が多い」。

おかげさまでケンカは減ったけど……そんな、自分自分超人はいないから、人とかかわる資格を持っている人がいなくなっちゃった。かかわらないんだから、そりゃケンカもない。

そのうち、人は社会の大切さを忘れて、社会にいることも忘れる。

隣で人が死んでも、自己責任ってことでサングラス。

 

中には、そんなときに違和感が湧く人もいるんだけど、それも「個性の尊重」と「人それぞれ」って呪文でなかったことにできる。

ビバ!「多様化」ってな感じで、洗濯機と冷蔵庫とテレビも死んでいった。私たちは、 生活の基準を見失う。

 

でも……なんか残る。

「いいね!」をクリックしてても消えない何かが。

その正体が最高に潔い。

 

そう、その正体は「人とかかわっていない不安」だ。

 

4.「つながり」

それから、人間に大切なものは「つながり」だと考えた。「つながろうとすること」も大切だ。

 ある場所でその学校を卒業した70代の方が

「私はこの学校で、花が花として美しく咲いていることを教えてもらい、食べ物がおいしいということを教えてもらった。この学校があったおかげで生きる喜びを教えてもらった。」と話していた。

 なぜ生きる喜びが「それ?」って思った。

 けど、それは、それこそ「外界とのつながり」に他ならない。

 

そして、それを自分で勝手に見つけたのではなく「教えてもらった」というところに、人間の最大の価値がある。

いわばこれは「人から人へのつながり」の幸福なのだ。

 

そして、じゃあ、それは受け身で待っていればいいのかと問うた。

しかし、自分の力だけでは「つながれない人」がいるのも事実だ。

かつ、積極的に消極的になって、わざわざつながる確率を下げることもない。

 

人間が生きる意味の一つに「残す」ということはないだろうか。後世が幸せになるために、自己と社会をつなぐコツを伝えるわけだ。

私は、それが「教える」ってことだと思う。 

その自己と社会をつなぐコツ(コツには事実や科学からの解釈や知恵も含む)がなければ、人々は社会で迷子になる。もしくは、家の中にいるのに、見えない存在になるように思う。

 

それと同時に、当面の人生のテーマに「幸せの再定義化」なんてことを言っていて、「幸せは人それぞれ」っていう思考停止のための言葉から脱したいと思った。「コツ」を見つけたいわけだ。

 

5.「&のある生の謳歌」

「幸せの再定義化」を思い、幸せについての一般解を求めて、誰もの幸せをも包容する絶対解のようなものを探していた。

何カ月か経って「幸せとは『&のある生の謳歌』」だ、という言葉がひらめいた。

「&」とは「つながり」であり、そのつながりには「もの、自然、人、動物」などが入る。

・「生」とは「人生」であり「人間らしい生」である。

・「謳歌」とは「恵まれた幸せを大いに楽しむこと」であり「与えられた条件や状況を『楽しむ』」という肯定的な感情を示している。

 

人は自分に「肯定的なつながり」を認識できたとき、「幸せ」だと思えるのではないか、ということだ。

脳への刺激による物や行為や現象から得られる幸福感と、つながりという人間が普遍的に感じられる幸せを分けて考えることが大切で、どちらも「幸福感の成分」には必要でである。この両方をバランスよくそれこそ「5:5」でもっていることが理想的な幸せだと考えた。

また、「つながり」の幸せは「持続性があり」、「刺激」による幸せは「消耗が速い」と考えた。

一方を10:0にしてしまうと「つながり」の境地は「悟り」(すべてはすべてとつながっている)を開き、「刺激」の境地は「薬物乱用」(終わりなき刺激の探求)の道だと考えた。

 

6.「つながるために必要な視点」

それはさておき、つまり「つながり」のベースがあることが、人々を持続的な「幸福感」に導くと考えた。

 

というわけで、次に「つながり」の構築のために何が必要なのかを考え始めた。

 

浮かんだ言葉は「知る」ということだ。

私は、相手を「知る、認識する、認知する」ということが、他人を自分に入れる第一歩だと考えている。

 

灰谷健次郎の詩がとても考え方の参考になる。

あなたの知らないところに

いろいろな人生がある

あなたの人生がかけがえのないように

あなたの知らない人生もまたかけがえがない

人を愛するということは

知らない人生を知るということだ

誰かを自分の中に入れ、自分の人生と共に歩ませ住まわせていくことは尊い。

あなたがいなければ存在しなかった自分がいるのだから。

あなたがいたから生まれた私がいるのだから。

 

近くには、踏切で死んでしまった人だっている。

そんな悲しい生も大切に胸にしまって共に生きたいと思う。

 

ただ、世間では「自尊感情の低下」が話題となっている。

相手を知ろうにも「知る側の器」がズタボロなのだ。

私は、それも「自分の中に他人が存在しないから故」と思っていた。

自分の人生に他人の人生が入っておらず重みがないから、自身を誇りに思えないのではないか。

 

誰も大切にしてこなかった人生をどうして大切と思えるだろう」と。

 

けど、もし、本当に他人を大切にするには、まだ、二つ視点が必要だった。

一つは、灰谷健次郎の詩の言葉の一部を変えると現れた答えだ。

もう一つは、タイトルの言葉「相手にOKを出せて、はじめて自分にもOKを出せる」だ。

 

7.「つながりを得るための要素3つ」

ふと、灰谷健次郎の詩は、他人の大切さが連想され、「他人のための詩」だと思っていたのだが、発想を少しだけ変えると

自分を愛するということは、自分の人生を知るということだ」ととれることに気がついた。

そうだ、他人を知る前に「土台となる自分自身のことも分からない」から、他人がスムーズに入っていかないんだ、と思った。要は「自分がもつ『感情や言葉、自分を表現する概念』をもっていなければ、他人のもつ気持ちや表現を受け取れない」と考えた。

自分が何が好きか、何が嫌いか、何が楽しいか、何が悲しいかも、子どもたちはよく分かっていないのかもしれない。

 

なぜなら「無思考で脳に刺激を与えて生理的に脳が反応しているだけだからだ。」

 

そうして、ある「要素3つ」を見出し、流れを考察することが出来た。

①自分を知り愛するという「自己認知」

②相手を知って「自分と違うことを知る」→「他人が存在することに気づく」→「他者意識」をもつ

③その相手にOKを出して受け入れる(違いを認める)

すると、その先に、社会の中で周囲の人と「『違う』という自分」も受け入れることができ、その「違い」のある自分を生かそうと思える。

 

その先で自分を生かすことができれば、人は自分を好きになれるのではないだろうか。

そうなった人は、前向きに社会とかかわり、自分の力を周囲に役立て「&のある生の謳歌」を手に入れられるのではないだろうか。

 

そんなことを、考えた。

 

大切な肝は「自分だけでは自分を作り上げることは決してできない」ということだ。

つまり「『つながり』がなければ人は幸せどころか、人間として人間らしく生きることすら『できない』」ってことなんだ。

 (③の出典を次回に書く)

 

私は、こんなことを何年も跨いで考えていたのだが、これは、結局、ただ「道徳性の発達」の過程に近かったりするから……笑えない(笑)

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