それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

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「みんな違ってみんないい」の戦い

中には、「みんな違ってみんないい」とは、そう簡単に口にできないと言う大人がいる。

 

別にいてもいいんだけど。理由にもよるだろう。

 

その理由に、みんな違っていいのだから「好き勝手していい」という解釈をされると、指導ができないというのがある。

 

自由に立ち歩いていい、自由に授業を妨害していい、自由に教室から出ていい、自由に暴言を吐いていいなど。

 

そういうとき、自由について大人が熟知してなくてもいいけど、考察している必要はあるかもしれないと考える。

 

ここで憲法なんかを出すと嫌がるかもしれないけれど、第12条。

 

第十二条  この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

 

自由の権利を濫用してはならないし、

常に公共の福祉のために利用する責任を負うわけだ。

 

誰かの学習権が奪われるような行為はありえないわけだ。

 

子育ての第一義的責任は保護者である。

どんな子どもにもいうことを聞かせる教師の力量の追求は大前提として、ただ、国のシステムの言うことを聞かせるかの根本責任は、親にあるかもしれないってことも忘れてはダメだろう。

 

これらを、教師も保護者も知っていての、「みんな違ってみんないい」が言えないなら納得したい。

 

実際は「みんな違ってみんないい」に決まっている。

 

多様性に甘えて、道徳を蔑ろにする大人が子供の幸せを混乱させていると思う。

大人たちは協力して、とりあえず小さい地域社会での方針の一致でいいから、大人たちは必要なこと大切なことを一貫して教えようとできるといいのに、という……愚痴の回だね、こりゃ。

 

大人の背中で、大人のルールを示せるくらいに、大人は社会の中で生き生きと過ごし、モデルとして魅力をもちたいところだ。

 

 

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