かならず幸せになれるいきもの

幸せな子ども時代を過ごす子どもを増殖させるための哲学。(旧:それでも幸せな人はいるから)

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「個性」を煽られる子どもたち―親密圏の変容を考える―#2

 

inclusive.hatenablog.jp

 これの続きですが、#1は長すぎるので、#1を4つの流れでまとめると、

 

①親密圏の人と関わるのに忙しい

②他者が認識できない。(教師や大人を価値のある他者だと思えない。)

③親密圏を維持するために同調していじめや犯罪もおこる。(いじめは以前のように差別ではなく、ノリでおこる。犯罪も社会への訴えではなくノリで起こる)

④全体の協同性へと統合されない。(内輪にしか目が向かない、社会の在りようを伝えられない。よって、一人の自律した人間として社会とかかわれない)

 

こっから#2の内容。

概観を先に言ってしまうと、

 

①個性は「自分の中」にある。流行りは「内閉的個性志向」だよね。

②でも、それは「無限」に終わらないよ、だって個性は他者とのかかわりの比較における相対的なものなのだから。実際、個性は「社会的個性志向」なんだよ。

③その黒幕は社会なんだ。社会現象として「内閉的個性志向」の考えがあって、社会化の過程で「内閉的個性志向」が求められているんだ。

④もうそしたら「個性」なんて手に入りっこないじゃない。どこにも「自分らしさ」なんて見つけられないじゃない。

⑤自分の存在ってなんなの?(不安)

#3につづく

 

#2は、こんな感じです。

 

 

二 内閉化する「個性」への憧憬ーオンリー・ワンへの強迫観念ー

1 生来的な属性としての「個性」

この項では、「個性」について二つの視点でとらえています。

・「社会的個性志向」

・「内閉的個性志向」

です。

◆「社会的個性志向」について

 「個性」を相対的なものであり、社会的な函数であると個性を感受する在り方を「社会的個性志向」といいます。

本来、自らの個性を見極めるためには、他者との比較が必要不可欠のはずです。他者と異なった側面を自覚できてはじめて、そこに独自性の認識も生まれるのです。

「他人と比べない」という言葉がよく言われますが、それは「他人と比べること」を人が使えこなせなくなってきたからシャットアウトしてしまっただけなのかもしれない、と感じました。

従来、人には、「比較」が必要なのかもしれないのです。

 

◆「内閉的個性志向」について

しかし、現在の若者たちにとっての個性とは、(中略)あたかも自己の深淵に発見される実態であるかのように、そして大切に研磨されるダイヤの原石であるかのように感受されています。

「自分らしさ」も、その潜在的な可能性も、自己に本源的に備わった実体の発現過程として個性を理解するような感受のあり方を、「内閉的個性志向」と言います。

簡単に言うと、個性は、自分の内側を深く見つめることで見えてくるという考え方です。

 

個性がそれぞれにあるという捉え方は、「どの人間も対等である」という人間観につながるそうです。

その人間観は、人の「社会化」による成長という観念が欠落していると筆者は言います。

すると、社会における役割である「教師」という役割も、「生徒」という役割も見失われていきます。そのため、自身に対する否定を役割の否定ではなく、自分自身の否定と捉え、急激に怒ったり、打たれ弱いなどと言われたりすることが起こるようです。

 

2 内発的衝動を重視する子どもたち

そんな中で子どもたちは、行動規範が「<善いこと>から<良い感じ>へ」移っていると書かれています。

 

自らが考える言葉の社会的説明力の強さや、言葉によって構築された観念や信念に根差した根拠を基に行動するのではなく、その瞬間の自らが感じる内発的な衝動や、身体的な感覚を重視する姿があるそうです。

 ところが、言葉によって構築された思想や心情が時間をこえて安定的に継続しうるのに対して、自らの生理的な感覚や内発的な衝動に依拠した直観は、「いま」のこの一瞬にしか成立しえない刹那的なものであり、状況次第でいかようにも変化しうるのです。

したがって、その直観に依拠した自己は、その持続性と統合性を維持することが困難になります。

 自分らしさを希求して、内側に自身を探り、直観に素直になっていった結果、刹那的な自己しか得られず、結果、自分らしさを自ら遠くに追いやってしまうという状態が起こります。

子どもたちは、自分が何者かが分からないといった事態に陥ります。

 

3 「自分らしさ」への焦燥

ここで、忘れてはならないことが一つあります。

これらの、内側や自分の直観を大切にする個性のとらえ方は、「世界に一つだけの花」が流行ったように「社会現象」なのです。

 

「社会」における「社会化」の過程に、「内閉的個性志向」が求められたからこそ、子どもたちの中にその姿が現れているわけです。

 

また、個性的な存在であることに価値を見出そうとする傾向は、歴史感覚の欠如とかかわっているそうです。

 

社会が大きく変わっているとき、人々はそこに歴史性を見出せるそうですが、現代はすでに社会が大きな変動を終えてしまっています。

今の歴史性が続いているかのような錯覚をし、自身の世界が膨大な歴史の中の一コマに過ぎないということが実感できないのです。

 

歴史に対する想像力の欠如は、社会に対するリアリティの衰退でもある、と書かれています。

 

公共圏を支えるための共通基盤がそこに存在しなくなっていると言えるのです。

 

社会のマンネリ化は、一瞬の感動を消費する傾向が強くなっていることからも読み取れます。日常に感動がないため、ワールドカップやオリンピックも感動イベントを求めて人が集まります。

 

感動志向は、私たちが内面世界へと執着しはじめたことの表れの一つ、と書かれています。

 

その内面の探求は、終わることなく「個性への欲望だけが無限に肥大し続ける」状態が起こります。

個性とは本来相対的なものです。しかし、内閉化した世界で個性は絶対的なものととらえられ、しかも、その欲求は内側に向かってどんどん高められていく。

自らの分限をしるために社会的な視座がそこには存在しないため、個性の欲望だけが無限に肥大し続けるのです。

人々は、個性を見つけたいのに見つけることができません。終わりのない個性の探求が、間違ったルールによって個性を見出す情念が溢れ続け、人々のエネルギーをむさぼります。

 

◆#3に向かって

以上のように、若者たちの個性のとらえ方が内閉化してきているとして、では、なぜその一方で、彼らの人間関係は重く感じられるようになっているのでしょうか。

個性というものが、人間関係のなかで培われるものと感受されていないのだとしたら、他人からの評価など、どうでもよいことになりはしないでしょうか。

 

つづく

「個性」を煽られる子どもたち―親密圏の変容を考える (岩波ブックレット)

「個性」を煽られる子どもたち―親密圏の変容を考える (岩波ブックレット)

 

 

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