それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

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『キャラ化する/される子どもたち』―排除型社会における新たな人間像―#2

 

inclusive.hatenablog.jp

#1 のつづきです。

 

#1では、「人間関係」への不安から、「世界の狭小化」、そして「社会の画一的な価値観」が薄まり、「その場の目の前の人の評価」を気にするようになる。その目の前を手に入れるために「コミュニケーションによる序列化」が生まれるといったことを書きました。

 

そこから生まれる「キャラ」という「人間像」。

「キャラ」をキーワードに「人間関係」と移りゆく「人間像」について見ていきます。

 

第二章 アイデンティティからキャラへ

第二章に書かれていること。

「キャラ」について。「キャラ」には「外キャラ」と「内キャラ」があります。

 「外キャラ」による円滑な対人関係の技法。「内キャラ」という固定的な自分。

そこから来る「人生は生まれもった素質によって決まる」という心理があります。

 

流れを書くと、

これまでの

「自分らしい自分による(アイデンティティのある)人間関係」
から
「キャラ」という人間関係をスムーズにするための方法を用いるようになっていった。場面や立場に合わせた「自分らしさ(キャラ」を表出して円滑な人間関係を成立させていく。

この背景についても書かれている。


そして、その自分を「キャラ」という「固定的なもの」として見ることにより起こる、「自己の存在感の歪み」が、第二章では、だんだんと明らかになってきます。

 

1 外キャラという対人関係の技法

「個性」を煽られるから続いて、できるだけ「自己承認」が得られる人間関係を人は望みます。

多元化により客観的なものさしはなく、目の前の他者が自身への肯定感を握っています。

そのため同質と付き合います。
しかし、その類友と付き合いつづけることは、意外性による刺激がなく、活気を失っていきます

このとき、関係の維持に脅威とならない対立軸を集団内にもち込むことで空気を搔き回し、澱んだ関係を再活性化するためのテクニックとして登場してくるのが、いじりやすい生徒のキャラを標的とした今日のいじめです。

それでも、なぜ「キャラ化」するかといえば、「キャラ」は人間関係を単純化してくれるため。

外キャラの呈示は、それぞれの価値観を根底から異にしまった人間どうしが、予想もつかないほど多様に変化し続ける対人環境のなかで、しかし互いの関係をけっして決裂させることなく、コミュニケーションを成立させていくための技法の一つといえる。

「外キャラ」とは、偽りというわけでもなく、

ある側面を切り取って強調した自分らしさの表現であり、その意味では個性の一部です。うそ偽りの仮面や、強制された役割とは本質的に違うものです。

「キャラ」という人間像は、

限定的な最小限の要素で描きだされた人物像は、錯綜した不透明な人間関係を単純化し、透明化してくれるのです。

〈所感〉
最小限の要素は単純化されたその人の「芯」ととらえられると思いました。

その「芯」は、短絡的で、便利な言葉で語られるもので、否定されたり言い返されない応用の利く「芯」だと思いました。

「面倒くさがりキャラ」や「無気力キャラ」、「自殺したがりキャラ」なども、こうした背景から生まれているのかな、と思いました。

周りの人が、「それってどうなの?」と思うような態度の「キャラ」は、人間関係について考えることに疲れたから生まれたかもしれない、と思いました。

 

ここまでをまとめると、
若い人たちは、場面ごとに自分が良しとする摩擦のない「キャラ」を外に表出する。
そして、「外キャラ」を演じることで、人間関係の予定調和を演出し合い、自己肯定感を保ち、対立を避け、内的な自分の自尊感情が傷つかないような人間関係を成立させている、といえます。

 

アイデンティティ」と「キャラ」について

ここで、一旦「アイデンティティ」と「キャラ」について本文から押さえます。

アイデンティティ

アイデンティティとは、外面的な要素も内面的な要素もそのまま併存させておくのではなく、揺らぎをはらみながらも一貫した文脈へとそれらを収束させていこうとするもの。
いくども揺らぎを繰り返しながら、社会生活の中で徐々に構築されていくもの。

【キャラ】

断片的な要素を寄せ集めたものとして、自らの人格をイメージするようになっています。
対人関係に応じて意図的に演じられる外キャラにしても、生まれもった人格特性を示す内キャラにしても、あらかじめ出来上がっている固定的なもの。
したがって、輪郭が揺らぐことはありません。状況に応じて切り替えられはしても、それ自体は変化しないソリッドなもの。

 ※ソリッド:固定的

 

2 内キャラという絶対的な拠り所

昔は、一般化された他者の目が気になり、恨む対象も一般化された他者だった。
そうした考えから起こる「生まれもった自分から逃れられない」ことを思い知らされたことによる犯罪(本来の自分から逃れたいための犯罪)の中には、「世間全般への報復」としての考えがあった。


しかし、今は真逆で「生まれもった本来の自分が大切」であり、あの頃の自分を保持するために起こっている犯罪があると考えられています。

たとえば、「中学生までは幸せだった」そこから「負けっぱなしの人生」になってしまった、と感じて、あの頃のように視線を浴びたい(承認を得たい)という考えで犯行に及びます。

内キャラという形で感じとられる「本当の自分」は社会生活の中で変化することのない生来的で固定的なものという捉え方。

以下の世間の変化から感じられるそうです。

・りかちゃんのネオテニー幼形成熟)化。

・漫画などでキャラクターの造形描写で読者を惹きつける作品の増加。(エピソードの順番を入れ替えても、作品に影響がないものの増加)

人生の中で成長していくことに対する懐疑と、生まれもった自分へのこだわりの強さを暗示しているように思われます。

↓ &

どんな判断も別の観点からすぐに相対化されてしまう不安定で動的な社会。
従来のような価値の序列性が失われている。

 大人たちは、自分たちを抑圧する敵ではなくなったと同時に、人生の指針を与えてくれる絶対的な拠り所でもなくなっている。

1980年代までとは違い、未来は現在の延長でしかなく、今の日常が限りなく続いていくだけだと考え、そこで問われるのは、

「私はどこへ行くのか」ではなく、

「私はどこから来たのか」になっていく。

内キャラとしての生来的な素質は、どんなに熟意ある選択であっても、別の立場からすぐに冷や水を浴びせられやすいこの世界で、ただ一つ残された絶対的な拠り所になっているといえます。

 ↓

 今日の若い人が内キャラにこだわるのは、いかに生きるべきかを指し示す人生の羅針盤がこの社会のどこにも見当たらず、いわば存在論的な不安を抱えているからです。

〈所感〉
「正しさ」を社会が示せない時代にあるってことです。
「なぜ、人を殺してはいけないのか」が問いになっているのです。
生きた方がマシだと捉えられない(社会における人間が生きることの価値に揺らぎがある)から、こうした問いが出てくるのだと思います。

↓まとめると

「外キャラ」
対他的な場面において自己の印象操作の負荷を下げ、その潤滑油の役割を担っている。

「内キャラ」

対自的な場面において自己の感情操作の負荷を下げ、その安定剤の役割を担っている。

どちらも、自己イメージの管理にともなう工夫の産物という点では違いがありません。

↓興味深い指摘

特定の生き方を誰も強制されなくなったという点では、現在の日本はたしかにユートピアでしょうが、しかしそれゆえに、いったい相手が何者であるか根本的には分からないまま、不透明な相手とつねに向きあって生きなければならないという点では、そして、自分が何者であるかも根本的には分からないまま、不透明な自分とつねに向き合って生きなければならないという点では、同時にディストピアであることを示しています。

「若い世代に共通に見受けられる価値観の特徴」〈荷宮和子さんより〉

・がんばらずに良い結果を出す方がかっこいい

・何も考えずに行動するほうがかっこいい

・挫折した道でさらに努力を続けるのは見苦しい

これらに共通するのも、「生まれもった素質によって人生は決まる」という発想ではないでしょうか。

だから、ただなすがままに任せて成功した者のほうがかっこよく、また本物に見えるのでしょう。
逆にいえば、いくらがんばって良い結果を出しても、それは本物ではないと思えてしまうし、あれこれと考えて行動してみると、素質もないのに何を勘違いしているのだろうと思えてしまうことにもなるのでしょう。

これは、新しい宿命主義の登場とでもいうべき事態ではないでしょうか。

イケメンやキモメン、モテや非モテなど、今からの努力では変更が不可能と思われるような固定的な属性で、人生が左右されるかのように考える若者が増えている。

自分の人生を、自由意思にもとづいて主体的に選択されたものとしてではなく、生まれもった素質によって宿命づけられたものとして捉えようとする人々が増えている。

では、このような心性は、若い人びとだけに特有のものなのでしょうか。
(中略)
次章では、この心性の世代を超えた広がりについて眺めていくことにしたいと思います。

 

【個人的なまとめ】

日本における人間の生き方のモデルを、大人が把握して事実をもとに示す必要があるかな、と考えました。

子どもたちの中にある人生観の「ノリ」は、おそらく経済成長や不景気からくる大人のムードから来ていますよね。


しかし、だからといって、たとえば「努力をしない」のでは、「思いつきの人生」しか生まれないわけです。

取り組むものを見つけた人はいいとして、見つからなかった人は、社会に溶け込みにくいでしょう。


なので、「ナチュラルな自然な基準の努力」を何かに向けるべきなのでしょう。
その向けるものを見出すために、社会に開かれた教育課程を実現する学習指導要領の改訂があるのでしょう。

大人がつくりだす環境が、子どもたちのモデルとして魅力を感じ、自然な努力を生み、どの子も「自分らしく」社会に参加できたらよいサイクルが生まれるな、と思いました。

 

つづく 

inclusive.hatenablog.jp

 

 

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