かならず幸せになれるいきもの

幸せな子ども時代を過ごす子どもを増殖させるための哲学。(旧:それでも幸せな人はいるから)

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「大人の承認欲求の動機」にあるとんでもない「ズレ」による「子どもへの影響」

〈主題〉

「身近な承認欲求を優先してしまうことで、より大きな社会などから受ける承認の枠から排除されはしないか」の考察。

 

人はなぜ「承認欲求」を満たしたいのか?

それは、簡単に言えば「排除されている」と感じたくないからである。

「差別の対象」にならないために、「承認欲求」の確保が必要なのである。

しかし、その「承認欲求」を得る枠のポイントを間違えるととんでもないことになるように思う。

 

まず、日常場面から「大人の承認欲求」の様子をかんがえる。

 

たとえば、行事で親が力を合わせることがある。

行事に参加する親は、行事に参加するくらいだから、ワイワイと盛り上がる。

スポーツなんかは特にそう。

 

その中で、みんなプロではないので、やっているうちにいくつも失敗がある。

そして、大人の失敗は、必ずと言っていいほど“笑い”を誘う。

なぜだろうか、と考えた。

 

二つ考えを書く。

一つは、そこに“共感”が働いくことで“笑う”が起こるように思う。

たとえば、人は、身体が思ったように動く年齢から、動かない年齢になっていく。

その感じが“共感”できて分かるから、ミスを責めない。

その不自由さの共感が面白くて“笑う”が起こる。

 

もう一つは、もう少し単純で「ミスを笑いに変えたいという気持ちから」だ。

みんなミスと同時にほぼ反射的に笑っているように感じた。

 

それは、もちろん、大人同士でプロとしてでなくスポーツをしていて、ギスギスするのはスマートではないだろう。それが、多く人のもつ考え方だと思う。

 

そのスマートでいたいとか、ギスギスしたくないというのが、まさに「個性をあおられる」や「キャラ化する/される」に書かれている「対立を回避する」関係似ていると思った。

私たちは、何より「望まない対立を回避したい生き物」なのかもしれない。

 

そして、その場で「対立したり、非難されたり」しないための「承認を得られる行動」として、関係や存在などの在り方を肯定的に承認し合う確認のための”笑い合う”が起こるのだと思う。

 

ここで押さえたいのは「大人も承認を得るための行動を自然と選択する」ということだ。(アドラー心理学は「承認欲求」を否定しているので、そちらからも今度「承認」については考えていきたい。)

 

そうした「大人の承認欲求」は何を生むか。

 

もし、それに翻弄されてしまった場合、おそらく子どもはズレた方へ成長するだろうと思う。

 

どういうことかと言えば「承認欲求」を得るための選択と、「人間が成長」するための選択は違う。

そして、この「ズレ」が、この「ズレ」だけが、すべての元凶であり、大きな問題なのだと思う。

 

私たちは、ある時、つい「承認欲求」を優先して、選択を短絡的な方へ引っ張っていってしまうことがある。

人間として必要な学びよりも、承認されるための振る舞い方を子どもに教えてしまうのだ。

 

土井孝義の本に「親が子に依存し、子どもが受けた評価を、まるで自分が評価を受けたかのように感じている様子がある」ということが書かれている。

 

子どもが失敗したとき、しなれけばならないのは、失敗についての省察である。

笑えることもあるだろうが、教えなければならないのは、失敗に対しての一人の人間としての姿勢や構えを学ばせていくことが必要だろう。

 

しかし、そのときその失敗をさも「ない」ものにしようとする人もいる。

「うちの子だけが悪いのですか?」などと言い、「誰が悪いかを追及する大人」である。

 

これは、「承認欲求」を求めるからこそ出てくる言葉だと思う。

「私は(うちの子は)悪くない」といった、私は承認されない側の人間ではありませんという訴えである。

 

しかし、こうした失敗が起こったときの、論点は「誰が悪いか」ではなく、「何が(どんな行為が)悪かったのか」だ。

 

ある大人は、勝手に裁判員になって、どちらが悪いかくだそうとしすぎる。そもそも、失敗やトラブルが起こったときに、どちらか“だけ”が悪いということは少ない。

 

にもかかわらず、そういう人は「うちの子だけが悪いのではないから謝る必要はない」などと言って、「行為を“無かったこと”にしようとする」。

 

それは、繰り返しになるが、「承認されない」という状態をつくらないためである。

言い換えれば「あの子は悪いから」という「承認からはずれる存在」になるのが怖いのだ。

 

ここまで、話すと一つ気づいてもらえることがあると思う。

 

「承認欲求」を満たすことは、やはり「排除されない」ために必要なのだ。

承認欲求を「満たせない位置」に行くということは、そのコミュニティでの「あなたは間違っています」という位置に行ってしまうということと同じであり、それは、「あなたは差別するに値する価値をもつ対象です」と決定されてしまうということと同義なのである。

 

けれど、実際は「行為を無かったことにしようとする存在」の方が、客観的に見て異様に見えるのは私だけでしょうか。

 

そこが、現代の人びとが陥っている落とし穴である。

 

身近なコミュニティ(家族、友だち付き合い、近所づきあいなど)の中で、
「自分(自分の子)を差別の対象」にしないために、
「短絡的な承認」(社会には合わないがその場には合ったノリ、自分は悪くないという主張、話を盛りすぎるなど)を選び、

人間として必要な考え(社会のモラルなど)から離れていってしまう、

 

というところである。


親が子と一体となって親が子どもに依存し、子どもが否定されることは親自身の人格をも否定されるかのように捉える。

 

そこから、失敗したり過ちを犯したときに「自分(=うちの子)は悪くない」という
「承認欲求」が満たされない状態を避けるための選択により、
「うちの子だけが悪いのですか」と
「排除されないための考え」を導き出す。

 

しかし、これが社会の中で許され続けるとは考えにくい。
身近な承認のために、人間として必要な考えに見向きもせず横に追いやり続けた場合、やがて相手にされなくなるのは当然のことといえる。

 

たとえば「してしまった事実から逃れよう」とすることなど、
人間として必要な「社会の価値観」とは“ズレ”のある選択し、
「自分(=うちの子)は、悪い人間ではない」という証明をしても、
「悪いことをした事実」は変わらず、
その「事柄について」の対応がなければ、
「自分(=うちの子)が、『悪いことをしていない人間』」として認められようとしても、
「『悪いことをした』のに『悪いことをした』と認めない『悪い人間』」になってしまう。

自分(=うちの子)が承認されないことを避けるがゆえに、
身近なコミュニティで「自分(=うちの子)が承認される」ための「“ズレ”のある選択」をすることは、
人間社会という大きな集団からの「承認を得られない状態」を呼び、
結果、人間社会という大きな集団からの「排除」つながってしまうことが想像できる。

 

簡単に示すと、

「承認欲求」を満たしたい気持ちが強い大人は、
自分が「排除の対象」すなわち「差別に値する価値をもつを対象にならないこと」に気を付けている。

また、子どもに依存している大人は「うちの子(=自分)が承認されない状態が生まれないよう」に「子どもを守ろう」と細心の注意を払っている。

しかし、その「行き過ぎた承認欲求への意識<子ども(=自分)を守りたい気持ちの度合い>」が、「社会との“ズレ”を生む」可能性がある。

 

「大人が承認されたい欲求」をいくら大切にしようが知ったこっちゃないが、「子どもが社会で生きにくくなるような思考の持ち主」にならないように、大人が子どもの未来を守れるような判断を選択する必要はある。

 

自分が悪くならないための言い訳をして「悪者にならない」ための思考力ではなく、
「何が悪いか」考え、社会としてそれが「悪い行い」であったなら、それを振り返り、「自分を正していける人間」になれるように、子どもに言葉を与えるべきだろう。

(いわゆる「自己指導力」ってことなのだけど……)


それが「子どもに必要な大人の役割」である。

 

間違っても「うちの子を悪者にしない」って愛情が、その子を守ることにつながるわけじゃないってことが言いたかった。

 

長くなった。

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