それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

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私たちは障害を認識できるか

〈結論〉
「子どもは認識できない可能性がある」

「教師は基本的にできるだろう」

と考えた。
そして、認識するためには「知識」が必要であり、どう認識するかには「理解」が必要である。

話は最終的に「大人の『理解』が大切だ」というところに落ち着く。

 

では、はじまり、はじまり。


E.L.カニグズバーグという児童文学の作家の作品の中に「800番への旅」というのがある。

 

その中で、難病と言われる「病気」の人や、事故などによって「身体の一部を失った」人の新聞記事を集めている「サブリナ」という女の子が出てくる。

ちなみに主役はマクシミリアンという男の子。

 

ちょっと会話を載せます。

マ:「でも、レネーの場合は、生まれたときから問題があったわけじゃないよ。事故の被害者だもん。今からでも、ふつうの生活をおくれるはずだよ。」(レネーは、新聞記事に載っていた人で、線路に突き落とされて指が切断され、病院で接合したが元のように動かせるかは分からないフルートの奏者)

サ:「それじゃあ、ふつうとはいえないのよ。」

マ:「あの子は、自分の身に起こったことをのりこえることだってできるよ。」

 

サ:「のりこえるってこと自体が、ふつうじゃないのよ。のりこえるっていうのは、自分のしたいことのうえに、いっつもなにかしてなきゃなんないってことなんだから。何かを着てから服を着なきゃなんない。そんな感じなのよ。」

マ:「そりゃあそうさ。服を着るまえには何か着なきゃ。下着って呼ばれているもんが、それだよね。(後略)」

サ:「のりこえるというのは、服を着るまえに下着をつけるようなこととはちがうのよ。服を着るまえによろいをつけるようなものなの。何を着てもよろいの形になっちゃう。」

マ:「何をやっていても、それじゃあぜんぜんリラックスできないだろうね。」 

サ:「それに、何かのふりをすることもぜんぜんできなくなるのよ。」

マ:「ふりをしたいなんて、思ってる人いるかなあ。」

サ:「どんな人だって、ときどきふりをしていたいものよ。しなきゃなんないのよ。(中略) (病気や身体の一部を失った人などには)それができないのよ。何かを装って生きるということができないの。ありのままの自分でいようとするか、何かを装ってみせようとするか、それを選ぶことができるのは、あなたやわたし、リリー(サブリナのお母さん)やウッディ(マクシミリアンのお父さん)みたいなふつうの人だけなのよ。」

マ:「ウッディーはいつだって、ウッディーだよ。(後略)」

※()内はpenguin

 

「800番の旅」の中のこうした会話から、「800番の旅」では、装うことができない人たちをふつうとは違った生き辛さを抱えている人と捉えていると考えました。

 

「装えない人」たちは、端的に言えば「社会生活をおくるのに障害がある人びと」のことでしょう。

 

その中には「見た目で分かるもの」と「見た目で分からないもの」があります。

 

サブリナに言わせれば、どちらも装えない人びとであり、何をするとしても“そういう”よろいを着た状態でしか行動ができない人びとということですが。

 

「見た目で分かるもの」に関しては、それに対するハード面の配慮がされ、社会的な障害が取り除く方法が考えられることが多いと思います。

 

しかし「見た目で分からないもの」について、「心」や「発達の凹凸」など(いわゆるソフト面)については、「装えない人びと」の「見た目」からは分からないことがありますよね。


そうしたとき、私たちは障害者を認識できていないのではないか、と思います。


そこで浮かび上がる問題が一つ。

「装えない人びと」すなわち「社会生活に障害のある人びと」の、

「見た目でわからないもの」に対する「知識」や「理解」のない人びとが、

どうやって「装えない人たちを認識するか」という問題が浮かびます。

 

その中でも「知識がない」ことと、「理解がない」ことはまた別で、また、二つは複雑に絡み合ってもいます。

 

先に子どもの場合を例に話ます。

<知識があって理解がない場合>
「装えない人」の「見た目で分からないもの」に対する「理解」がなければ、「装えない人である」という「知識」を与えることで「いじめ」につながったり、差別につながったりすることがあります。

<理解があって知識がない場合>
「装えない人」であるという「知識」がなければ、「装えない人」を「理解」をして配慮することができません。


つまり、子どもたちは、情報の不足から「『障害がある』ということを認識できない可能性がある」ということです。

 

発達障害者支援法」や「障害者差別解消法」があっても「装えない人びと」を認識できなければ、それは意味をなさないのかもしれないと思ったのです。

 

そんな中、じゃあ大人は?と思うわけです。

基本的には、教師にはどの子が装えない人なのか、そしてその子の「見た目で分からないもの」の「知識」がありますね。

子ども一人ひとりがどんな発達の凹凸(“そういう”よろい)がありそうか、少なからずイメージをもてるはずです。


「知識」はあるということを前提としすると、問いは、教師に関して言えば「理解」があるか、という話になります。

 

たとえば、教師に知識があって、理解があれば、発達に凹凸(“そういう”よろい=見えないよろい)のある子に対して、たとえば「視覚的・肯定的・具体的」に指示することを心がけたりすることができると思います。
その子についての知識や、どう応じると良いかの知識があるわけです。
教師が「どこの何を対等」と思うかにもよりますが、「参加の形を配慮」してあげることもできると思います。

 

それでも、やっぱり現実では「装えない人たち」に対して、「同じように装え」と言う人がいます。これは、「見た目で分からないもの」、「見えないよろい」への理解がないから出てくる言葉でしょう。

 

「どこの何を対等」と思うかは、教師が「どこの何を優先」するかが関係します。
たとえば、97.5%の子ができるような内容を設定するとします。

そうしたとき、2.5%の子は“その内容が”「できない」とするのか。
はたまた、2.5%の子も“参加は”「できる」ようにするのかのねらいや優先順位が鍵なのです。

 

以上をから出てくる結論は、子どもは「障害者を認識できない」可能性があるということ。たとえば、小学生であれば基本的に「見た目で分からないもの」に対する「知識」はないでしょう。
そして、大人は「知識」から認識できるだろうが、「理解(見えないよろいへの理解)」によって応じ方が変わってしまう可能性があるということです。

この辺からだんだんと、認識の質(どう認識するか)へ話が移っていきます。

「子どもは認識できない可能性があり、大人は認識できる可能性がある」とすると、言ってしまえば、“そこにいる大人”しか「装えない人びと」を認識し「装えない人びと」をどう認識したかによって、かかわりを示せるモデルはいないということです。


そのモデルになりうるのは、親か教師の場合がほとんどだと思います。


その教室の子どもたちに差別を起こさない「装えない人びとの見た目で分からないものへの理解(見えないよろいへの理解)」を得るためには、親と教師の「装えない人々」に対する「振る舞い方(理解からくる態度)」次第だ、ということです。

 

「だったら、そもそも100%の子が参加したり、できたりする内容にしていけばいいんじゃないの?」という声が聞こえてきそうです。

 

その通りでしょうね。
そして、「インクルーシブ教育」や「UDの教育」についての話はまた……つづく。

 

800番への旅 (岩波少年文庫)

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