かならず幸せになれるいきもの

幸せな子ども時代を過ごす子どもを増殖させるための哲学。(旧:それでも幸せな人はいるから)

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『キャラ化する/される子どもたち』―排除型社会における新たな人間像―#5(終)

inclusive.hatenablog.jp

 のつづきです。

 

「キャラ化する/される子どもたち」の〈概観〉

第一章

・合わないと感じると排除する人間関係がある。グループの違う人とは交流がないなどの事実がある。

・簡単に排除する自身の人間観は、相手にも簡単に排除されるかもしれないという不安を抱くことにつながる。

・また、一般的な社会のものさしの価値が薄れたため、目の前の他者に常に自分の良し悪しを判断してもらわなければ、自分の存在に対して不安が起こるようになる。

・そのため、「合わせる」という承認欲求を満たすためのかかわりが強まる。同時にコミュニケーション能力の高さが、人間関係をつくるために有用になる。

第二章

・摩擦のない予定調和の人間関係を求める。それは、承認欲求を得るため。そのための人間関係の技法として「外キャラ」が生まれる。
・自分を固定的なものとして捉える風潮は「内キャラ」という固定化された本来的な自己も生み出した。「内キャラ」は、価値観の多様化の中で絶対的な拠り所となりうる。
・自分の人生を固定的に捉える様子は、「新たな宿命主義」の登場と捉えられる。

第三章

・フラット化する人間関係を求める傾向は大人にも起こっている。

・子どもに同質化して依存し、子どもに起こる人生が親に起こっていることのように捉えることがある。

・しかし、モンスターペアレントなどと呼び、教師の側から異質な対象と見なすレッテルを貼ることは、子どもたちが起こしている人間関係の排除と変わらない。

・また、大人は子どもをキャラ化している。犯罪者は、犯罪者の資質が生まれつきあったから犯罪を起こすと捉え、排除型の治安を生み出そうとしている。

・ただ、どんなに異質なものを排除したとしても、異質なものは誰の中にも潜んでいて、内側から紡ぎ出されるものである。自らの異質なものと出会ったとき、自分はどのように対処するのか、そこに落とし穴はないか?

第四章 

・異質を圏外へ追いやり、同質とだけつながり閉塞化するコミュニケーション。

・「内キャラ」が傷つくと「宿命主義的」な人間観により、人生が終わったと思う。

・理想とは異なる「不気味な自分」と出会ってしまったとき、どう自分を受け入れるか。

・異質な人間との付き合いは、異質な自分との付き合い方も教えてくれていたのではないか。

・身近な世界の異質、または、異質な世界の同質を見つける目をもつこと。

・多種多様な人間同士のやり取りの中で自分肯定の基盤を見つけていくことが大切。

 

まとめ(抱いていた問題の解決)

・「個性を煽られる」での個人的な問いの残り

"その集団の中にいて自分の立ち位置(キャラのようなもの)が決まると、自分はそういう人間なんだと自分で位置づける。その位置からは逃れられないものだと思い込んで、一生の間社会の中でもそうだと思い込んでしまう姿"

▶「宿命主義的」な人間観があり、思いついた「外キャラ」のどれもがうまくいかず、自尊感情が急落し「内キャラ」が傷ついた結果、どんなにあがいても抜け出せないと感じるような自己像に帰結した結果、自分のことを「もうダメだ」と感じ、そういう態度になるのだ、と分かりました。

▶その恐怖のようなものが、反対に異質を排除したり、人間不信やその状況に関与した大人不信につながったりしているのだと分かりました。

 

◆「個性を煽られる」で土井さんが挙げていたもの

①人間関係の構成原理をもう一度見直す

▶「キャラ化」では、「異質」と「同質」、「排除」と「包摂」、「コミュニケーション能力は相手との関係次第」といった構成原理を書いていたように思います。

(何によってコミュニケーションが規定されるかという意味での構成原理は、また別で見えたときに書きたいと思います。メラビアンの法則的なものについては。)

 

②個々の問題に潜んでいる社会的な共通因子を見出す

 ▶個人的に見出したものになりますが、

新自由主義・自己責任」

「価値観の多元化・生き方の多様化」

「宿命主義的な人間観」(社会的なものさしの喪失により、拠り所が内側の自分にしかないため)

「一度転んだら起き上がれないほどの希望感のなさ」、「セカンドチャンスのなさ」、「排除型の治安」などを生んでいるかなと思いました。

「ノーミスが求められる人生へのプレッシャー」

「自信がない若者の誕生」

といった感じです。

 

③「個性を生かす」ではなく「個性を伸ばす」

▶「キャラ化」の中では、学校教育の営みが、新たに能力を育む「指導」ではなく、生まれもった素質を開花させるための「支援」だと感じられるようになっている、と書かれています。

▶その背景には、「宿命主義的」な人間観があることが言及されています。

▶同時に、学校教育の教育力も問われなければなりません。教師間の連携による教育力の低下や、モンスターペアレントなどを「異質」の枠組みと捉えることで「排除型」の人間関係の姿勢を持ち出していていないか考える必要があります。

 

④大人のメンタリティを問い直す必要がある

▶以上の総合的な部分がここに集約されるのでしょうが、「キャラ化にする/される」において、重要だと考えられる「大人のメンタリティ」に関する内容は、

「排除型」の人間関係

「宿命主義的」な人間観

の二つにまとまるかと思います。

 

◆「キャラ化する/される」で考察したかったこと

・「排除型社会」ってなんだろう

▶自分とは違うと感じた相手を異質とみなして、自分のコミュニティに存在することを認めず、異質な相手との関係は構築しない社会の風潮のことだと考えました。

 

・「新たな人間像」ってなんだろう

▶「宿命主義的」な人間観のことだと思います。「個性を煽られる」における「内閉的個性志向」に似た概念だと思います。

 

#1で掲げた内容がひとまず理解できた気がしてよかったです。

 

◆「キャラ化する/される」を読んでいて浮かんだこと

・「人と関われる手段や知恵や考え方」を提供する必要がある#1

「他者との相応しいかかわり方」を考えたいというようなことを#1で言いました。

「技術」と「心」に分けられるのでしょうか。

「異質」を排除する人間関係を構築しがちな昨今なわけですが、「どの人間も大切」「どんな人も必要」と「誰も」の価値(私は人に価値がつくのはダメだと思っています)が大切なものと誰もが捉えられるようになったとき、共生の道は生まれるかもしれません。

「技術」も「心」も越えた人間関係へ向かえるわけです。
コミュニケーションの格差はこの先どうなっていくのか……。 

・「ナチュラルな無理のない基準の努力を何かに向ける」#2

子どもたちの無気力が気になる今日この頃です。たぶん忙しいのかな?
学校がさせるべきこと、放課後にしなければならないこと。

「自分」を見失うには十分な環境です。引き合いに出すべきではないかもしれませんが、刑務所に入っていた人が、自分に向き合う時間だけは十分にあったという話をしていたことを思い出しました。
自身を育むために、何かで自分を紛らわさない自分と省察する時間は必要なのでしょう。

そのために必要な視点として、
「自分がしたい事をそれなりに追究できる時間が保障されること」
「努力をしたくないでもなく、過剰に努力をさせられるでもなく、がんばる体験ができること」
「追究したいことが見つかる環境に出あえること」
ことが浮かびました。

それにかかわってくるのが、
「大人が環境をつくる」
「大人が頑張る楽しさを感じさせるモデルとなる」
そうして生まれる「自然な努力」による自己の基盤が「自分らしく社会に参加する態度」につながる、と考えました。
(また、自己と社会の掛け合わせの視点は必要になってきますが。)

・「大人のメンタリティ」について#3

#3の中で、
「大人が肯定的な評価を求めていて平気か」
「大人の思いと子どもの思いのギャップ」
「宿命主義的な人間観だけではなく、教師も違いを認め合う姿勢が必要になる」
といったことを視点として挙げました。

これらの、「大人のメンタリティ」を問い直すことが、大人による子どもへの影響や社会の背景を捉えなおし、子どもに「真に今の社会で必要な力を身に付けさせる」ことを可能にすると思っています。

論点整理、次期学習指導要領案、教育再生実行会議の提言、倉敷宣言などには、社会を大きくとらえた教育の根拠が示されています。
「情報社会」「グローバリズム」「多元化」「共生社会」など。
ただ、それを、各学校くらいに落とすと、どう影響が起こっているのかは見えにくいものだと思います。

しかし、本書を見る限り、どこのどんな人間関係にも社会からの影響があると見ることができるように感じました。
遠い場所で起こっていることではなく、私たちも社会の影響を受け、子どもに「価値観」を体現して接していることを見失っては、知らないうちに「社会と自分と子どもへの指導」の間にギャップを生むことになるでしょう。

・「違いにイイネ!」を出し異質に寛容になることと「インクルーシブ教育」#3

大きな結論の一つである「異質を認める」ということ、これはその通りだと思います。

殻を破ったもん勝ち(人間関係に勝ち負けとかないとして)というか、異質を認めることで、双方に折り合いがつくことってあると思うのです。
それは「win-win」の関係を生むと思います。

誰かを否定している社会が、自分には生きやすい社会であるはずがないのです。
そこで見失っているのは、まさに何度も書かれているような、自分が異質なものとなったときの耐性を失うことになるのだと思います。
現代社会は、多元化・多様化の中で、誰にでも同じような状況が起こると考えるのが妥当な社会です。

いじめや不登校も、誰にでもどこにでも起こりうるものと言われていますよね。その現実味をもつ必要があるのだと思います。「正常性バイアス」というのがあるので仕方ない部分もあるでしょうが、だからこそ言葉化して意識しなければならないのでしょう。


そして「異質」を排除するのではなく「時間や空間やコミュニケーション」を共有できて当然の環境を構築できたとき、「インクルーシブ教育」は可能になるはずでよね。

#5は以上です。

 

残り二つあるのですが、これまた量が多いので「番外編」として次回にしたいと思います。 

次回、もう少し「キャラ化する/される」にお付き合いください。

 

読んでいて浮かんだ問い。

自尊感情を上げるには?

◆「新自由主義」と「自己責任論」の功罪#4

を書いていきます。

 

 

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