かならず幸せになれるいきもの

幸せな子ども時代を過ごす子どもを増殖させるための哲学。(旧:それでも幸せな人はいるから)

スポンサードリンク

『つながりを煽られる子どもたち』ネット依存といじめ問題を考える#3

inclusive.hatenablog.jp

 のつづきです。

第3章「いいね!」の承認願望

 

【消費の対象がモノからつながりへと移行した】

▶ネット接続へ費やす時間が増加しているため、消費の対象がモノからつながりへと移行したといえる。
・ボカロが流行ったのは未完のコンテンツで、場を共有して、絵や曲、詩、また「ニコニコ動画」でコメントなどをして、みんなで完成させて共有できるため。

▶学校の内外で積極的に人間に関わろうとしているように見えるのは、なぜか?
・友だちを多くつくるように心がけている子ほど、その関係の維持に強く気がいくため、「関係が辛い」「いつも気を配って雰囲気に合わせていなければならない」「メールなどのやりとりを終えるときに相手に気を遣いすぎてしまう」などと答えている。

▶それでは、辛いのに、なぜ熱心に友だちを作ろうとするのか?以下で見ていく。

 

【教師の評価はいらない】

▶私たちは、選択肢の豊かな世界を目指しました。しかし、人間は選択肢が多いほど人はなかなか決定できない。
・私たちは、様々な局面で、他者の態度や意見を参考にして選択をしている。近年はさらにその傾向が強まった。
(penguin:周囲の承認をとにかく気にするようになったということだと思います)

▶"先生の教えを信じてさえいれば人生の可能性が開けるなどとは、もはや素朴には思えなくなった"
・そのため、"学校の教師から受ける肯定的な評価が、今日の子どもたちにとっては絶対的な自信の根拠となりえなくなっている"。 
・"クラスメートからの評価のほうが圧倒的な重さを持つようになっている。" 
・"他者に囲まれた価値ある人間として自分が見られているかどうか、周囲の人びとの反応を過剰に気にかけるのは、そもそも承認を与えてくれる他者がいるかどうか、自分自身がつねに気を揉んでいる。"
(penguin:承認の質は、誰も対等で均一だと感じられるため、教師など大人の役割による承認の重みが減っているということだと考えられる。そのため、量の確保で身近な友人の確保の承認を得るための行動へ走るということ。)

 

【安定した人生の羅針盤が見つからない】

▶"人間関係が流動化したのは、私たちの価値観が多様化し、既存の制度的な枠組みに強く縛られなくなった"ことによるもの。
・"それは、同時に、安定した人生の羅針盤が見つかりにくくなった"ことも意味している。

▶明確な社会の物差しが社会の側に存在していた時代は、人びとはそれを羅針盤として自己の評価の判断の拠り所にできた。
・社会の側に安定した人生の羅針盤があれば、所属する集団に縛られてもその評価を過剰に気にする必要はないし、自分の信念や信条をもっていても進んでいる方向には普遍的な正しさがあると思って進むことができた。

・"自分が進むべき方向についての迷いを払拭するため、周囲からの反応を絶えず探り、それを自分の羅針盤とせざるをえません。"

▶その結果、他者から与えられる自己承認の比重が増し、それを得られるかどうかが不安の源泉になってきます。
・"他者とつながっていられない人間には価値がないかのような感覚が広まってきた背景には、承認願望の強まりという事情もある。"

一神教の国でもなく、世間からの評価も安定しない現在の日本では、"自分を評価してくれる仲間の存在が自尊感情を支える最大の基盤であり、またその仲間からの反応が自らの態度決定に有効な羅針盤であると感じられるようになっています。"

・"だから、その関係が損なわれることに強い不安を覚え、ネットを介した常時接続からも離れにくいのです。"

 (penguin:日本人はもともと集団主義的で信念を重視するタイプは1960年代でも4割ほどだった。そんな中で神も世間もいなくなり仲間の評価が一番になったということ。)

【重要な大人による承認】

▶子どもに承認を与えてくれる他者として、
教師の比重は下がっている
友だちは上がっている

▶では、親の立場はどうか?
・友だち親子というくらいだから、親も上がっているはず……。

▶なぜ、友だち親子ができたか
・世代による意識のギャップが少ないため。
「高度成長期→オイルショック→安定成長期→バブル崩壊→低成長期」の流れの中で、"親子それぞれの世代が思春期を迎えた時期の社会状況が、(中略)大きく変わらなくなってきた結果といえる"
・第二次反抗が見られなくなったともいわれる。
・背景には、社会成長の鈍化という大きな要因がある。

 

【「承認の軽さ」という問題】

▶承認をもらえる相手は、友だちが多く、増しているが軽い。友だち親子にしても承認を得やすくはなったが、承認の重さが圧倒的に軽いと考えられる。

▶"子どもたちは、どんな相手から承認を授かったとき、それを貴重なものとして深く重く受け止められる"か。
・"自分と対等な相手からの承認ではないはず。"
・"自らの存在など吹き飛ばすような圧倒的な力で迫ってくる相手でなければ、そこから授かる承認は絶対的なものとなりえない"
・"生殺与奪の権利すら握る協力な存在だからこそ、否定されたときの衝撃も大きい代わりに、承認されたときの安心感も大きい。"
・"いざとなったら拒否できるようなフラットな相手からの承認など、その程度の重さと価値しか見い出せないものです。"

▶"子どものうちは、安心して一方的に依存できる対象が必要です。人は、その体験を経て初めて、自立への一歩を踏み出せるものだからです。今日の親子が、友だち同士のように不安定な関係にあるとしたら、それは子どもの自立をかえって疎外していることになります。"

▶教師と生徒の関係にも当てはまる。
・2012年の調査で、担任の教師は自分のことをよく分かってくれると感じる中高生は80%を超えているそうです。今日の生徒にとって教師は友だち感覚で付き合える相手なのかもしれません。
・それは、同時に"教師から与えられる承認が、それだけ重さを失ってきたということでもあるのです。"

▶承認の質の低下を量の増大でカバーしなければ、安心感を得ることが難しくなっている。

▶相談相手が友だちから母親に移り変わっていっている。
・友だちには本音を言いづらくなっているため、友だちへの相談は減っている。相談で本音を打ち明けて、互いの関係を傷つけてはまずいと感じるため。
・母親には、反発を覚える度合いが減っているため、共感が得やすく相談が増える。しかし、それは友だち関係と似たように意見がぶつかって対立するなどのリスクもある。
・"安心して本音をさらけ出せる真の相談相手を見つけるのは、今日ではなかなか至難の業なのです。"
(教師は、子どもの生殺与奪を握っている親にはなれないので、社会的価値がある承認を与えられるかが基準になって生殺与奪に関与するほどの質のある指導ができる立場かが問われるかなと思いました。)

 

【読めない人間関係の先】

▶同じ世代内での小さな違いが目立つようになった。
・昔は、大人と子どもの価値観の落差があり、子どもの関心もその相違にいっていたため、仲間内の細かな違いはさほど目立たなかった。
社会学者の鈴木翔さんが、インタビュー調査の際に中学生が語った言葉。
"「はっきり言って、たかが先生に何もウチらコントロールされることはないですからね。面倒だからコントロールされたふりをしてあげることはありますけど。(教師は)生徒からいじめられちゃうこともザラにあるでしょ?だから〈上〉の生徒と仲良くなって、権利の一部を分けていただく。そういうことで多少は先生にも教室での権限が与えられることはありますかね」"
(penguin:大人がこの価値観に陥ったり、それを利用したりして学級を運営している人っているよな、と思います。子どもの行動動機が「大人がうるさいから」ではダメなんですよね。道徳性の発達を大人が意識して促せる必要があると思いました。)

▶安定した人間関係を構築することが困難になった理由は、
・"価値観の多様化によって、ものの見方が人によって異なるようになり、互いの考えを理解しあうことが難しくなったからだけではない"。
・"また、それによって制度的な枠組みの拘束力が緩み、人間関係の流動化が進んできたからだけでもない"。
・"さらに、このように互いの小さな差異に対して、それをかつて以上に敏感に感じとるようになってきたから"でもある。
・"これらは、組織的な対教師暴力が減少する一方で、癇癪爆発型の校内暴力が増え、また生徒間トラブルも増加して、それがしばしばいじめ問題へと拡大していきがちなのも、このような背景がある"。

▶昨日の敵は今日の友、今日の友は明日の敵。
・"今日では、友だちとの関係の重要性はかつて以上に高まっているのに、それを円滑に営むことはかつて以上に難しくなっています。"
・いつも予想通りの承認を得られるか見通すのは容易ではない。
・"今日まで肯定的な反応だったからといって、明日もそうである保証はどこにもない。"
・"だから、仲間内での自分の居場所を安全に確保するために、周囲の反応を探るアンテナをつねに敏感に作動させておかなければならない。"
・学校で言えば、"クラスの中でいったい誰が人気者になるか、その基準はもはや教師の想定を超えたところにあるということです。それどころか、子どもたち自身ですら、予想がつかなくなっているということです。それぞれの思いの最大公約数がどこに着地するかは、その瞬間その瞬間にしか分からないのです。裏を返せば、誰がいじめの標的となるかも、その時になってみるまでまったく分からないということです。"

www.asahi.com

・AKBの指原さんが、いじられ役に徹し、その後グループ内での自分のポジションを不動のものにした。学校の教室では、いじりが、被害者に深刻なダメージを与えかねないいじめへといつ変わるか、そのきっかけはクラスメートの誰にも分からない。

▶"今日のいじめが、どこにでも誰にでも起こりうる問題となっているのはそのため。"
・特定の根拠があって標的になるのではなく、理由は後付けにすぎない。
(penguin:特定の異質の子を排除するといういじめは減った。しかし、承認欲求を感じ合うための、同調によるいじめ、という前提からくる自分たちと異なった特定の子を排除しようといういじめは起こる。)
・同一集団のなかで加害と被害が回っていくタイプのいじめが増えている。これは、被害者が固定化された場合、より同一集団の中で承認を得るための行動がエスカレートし、残忍化する背景といえる。
・"加害側の生徒たちがつねに気にかけているのは、同じグループ内の他の生徒たちの反応であって、被害者をじっと見つめているわけではない。"
・"自分たちが周囲から承認を得るために、仲間のウケを狙うことに必死で、被害者の反応に目を注ぐことは二の次になっている。"
・"だから、その行為が相手に及ぼす被害の深刻さにまでは、とても気が回らない。"

▶目立たないことに徹する。
・"いじりといじめは、その被害の程度はまるで違っても、心理的には同根の現象で、いわば紙一重の関係にある。"
(penguin:動機が同じで起こっている行為で、当人にとっては「いじり」と「いじめ」の区別なく起こっていることなので、同根の現象ということ。)
・誰もが自分だけ突出することを避けようとする。リーダー的なポジションに就くことも避けようとする。
(penguin:全員リーダーを回して、立場や状況や条件を同じにすることで、圧力を下げられるかな、と思いました。大義名分をもっていい子ちゃんじゃなく何かに参加させてあげるために参加賞も大事だというイメージが浮かびました。)
・"フラットな関係を傷つける振るまいは、今日ではきわめて危険な行為とみなされる。"
・"孤立することを過度に恐れ、けっして関係から逃れられないと思い込んでいる点では、いじめの加害者も被害者も、じつは同じ心理を抱えている。"
(penguin:いじめている側も「次は自分にならないように」と考えているため。)

 

〈所感〉

(1)多様性の打破

周囲にある評価や反応に一貫性があり、それが共有されていたときには、つながりに対して強い不安はなかったようです。

この「多様性の打破」のために、「共通点さがし」をしたり、「いろいろ知る・学ぶこと」が大切なのだと思います。

そうして、共通の観点で承認や反応ができ、他者の価値観を知ることが、多様性に吞まれない力を付けると考えました。

 

(2)選択力

「選択肢」が増えた、という話がありました。

その世界でよりよく生きていくには、「選択力」すなわち「選択する根拠力」のようなものが必要になるように思います。

その「選択」をした「理由の説明力」も求められるようになると思います。

総じて「説得力」、「コミュニケーション能力」につながる部分だと感じます。

 

(3)社会生活に明るくないと信用は減る

「友だち親子」の「承認の薄さ」についてから感じたことです。

いくら友だちのように同調して仲良くできていたとしても、子どもの実際の友だち付き合いや現代社会の価値観、将来につながる考え方を示せていない場合、子どもにとって親や教師、大人の信用はどんどん落ちていくということです。

どんなに、共感してな仲が良くても、自分を生かしてくれる実利がないと、大人に価値を見出しにくい時代なのだと思います。

だって、そうでなければ、他の友だちと同じ同等な対等の相手の一人でしかないからです。

子どもの価値ある大人の基準にあるもので、思い浮かぶものを挙げてみます。

・ノリがよい

・面白い

・「すごい」と思う何かがある

・利益のあることを教えてくれる

・優しい

上のようなものを持続的に提供できる大人は、一目置かれて子どもに意見する権限が得やすいと思います。

この中で、「利益のあることを教えてくれる」という中に、今後「倉敷宣言の共通価値」、「法律」が入ってくるのではないか、と考えています。

これらを踏まえて、周囲の大人全体が子どもに価値あるものを共有して把握し、どの大人も価値ある大人として与えるべきものを与えられる範囲で与えられることが、大人も子どもも「幸せな子育て」の概念につながるのではないか、と妄想しています。

 

(4)自身にとっての重要な他者という視点

(3)と重なるのですが、自身にとって「重要な他者」という枠組みにどうすれば入れるのかが解明されると、何かしらの手立ての打ちようがあるかもしれないと思っています。

もしくは、「どの命も大切である」 この感覚が抜け落ちているだけかもしれません。

「価値があるものがある」のではなく「価値がないものはない」の方が優しい世界がつくれるかもしれません。

 

(5)帰結の先、本質はあるはず。

「クラスの中で明日誰が人気者になるか分からない」という話があった。

しかし、人びとの行きつきたいところはあるのだろう、と思っている。

どの人も「感じたい感情」は一致している可能性があるのだ。

それを、自分こそ得ようと一部の人たちが思うことで、不協和は起きていると思いたい。

「あいだみつを」の「うばいあえばたらず、わけあえばあまる」という感じに。

その帰結の先の人びとが得たい本質があるだろうということを「チームラボ」のアートを見ると信じたくなる。

いつも、在りたい形、行きつきたい形は「一つ」なのだ、それでも、そこに様々な誰かが入り込むことで、世界はざわつく。けれど、必ず一定に戻っていく。

odoru.team-lab.net

 

(6)「ネタばれ」で教え示し「どんな集団でありたいか話させること」

「ネタばれ」は、教師が今学級を見ていてこう感じる、このままでいいのか。

こういう場所ではこういう人間が生まれる、自分自身もそうなる、あえてそっちの道を選ぶ必要はあるのか、などと問う。

本書によれば、今の子たちは承認欲求が得たいがためにリーダシップをとろうと思えなかったり、進んでよい行動をすることや目立つ可能性があることが嫌だということだ。

ならば、在りたい姿を話し合いによって明るみに出すことで「みんなそう思ってたんだ」という共通基盤をつくり、良いことが承認欲求を満たすことができるようにする、環境づくりをすればいいのではないか、と思う。

要は、全員の意見を聞き取って悪い行為をKYにするというイメージと思う。

そして、その具体的なエビデンスとテクニックを合わせたものが、赤坂真二さんの「クラス会議」だと私は思っている。
まだ、本を読みきれていなくて、なんとも言えないのだけれど、検証していきたいものの一つ。

 

いま「クラス会議」がすごい!

いま「クラス会議」がすごい!

 

 子どもと見ながら進められる本ってことで、この本を書いた、と講演会で聞いた。

 

(7)そんな中「前に出たい」ってリソースを持っている子はいる。

カーストの位置によっては、前に出られる子はいる。

そういう子を見て「本当は前にでたいのに」って子もいる。

前に出ることで「いじり」や「いじめ」のターゲットになりうるということ。

前に「出られる子」と「出られない子」がいると感じること、そういうものなんだと思って子どもが育っていることは問題視すべきところだと思う。

一人ひとりの心が育つことが緊急の課題なように感じられる。

「心の教育」のどこかがからまって、子どもたちにうまく入らないのかを精査しなければならないと思う。

「心」というより別の条件によって身動きできなくなっているのかもしれないということも含めて。

そうして心を開くことができて、本心で安心して学ぶことができなければ。

一人の人間として自由な発想をもって過ごせなければ、学びが浸透していかないように思う。

 

(8)昔はそれほど気分で左右されなかった?

現代の人は「気分で決めがち」なのではないかと考えることがある。「気分論」って誰か考えていないだろうか、と。

昔は「共通のモノサシ」があったため。気分ではなく、それを基に自己確認ができた。

だからこそ、現代はより「気分に流されていないか」を自己点検する力が必要になる。

これは、これから『ファスト&スロー』を読んで、考えていきたい。

ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
 

 (9)自己承認の比重に対して

価値観の多様化による自分の迷いを払拭するためにも、身近な他者の承認が必要になり、以前より「自己承認の比重」が増しているとあった。

その結果が学校の中でよく見られる短絡的な作戦に「声でかい作戦」がある。

クラス内では、声の大きい子どもの意見が通ることが少なくない。これは、本来あってはならないことだと思う。また、人は、発言の量が多い人を強い権力があると感じやすいらしい。

そこで、子どもたちの意見力や権限の「均一さの保障」が必要になる。

また、意見するための「かしこさ」も高めていく必要がある。

そうして、小さな声の意見や、些細な意見も取り入れられるような学級を目指し、子どもたちの「分かり合える力」を上げることは、この先の未来に必要な力にもつながるのではないか、と考えた。

 

 (10)体験したい欲求もある。

承認欲求の話の波に飲み込まれて、他の考え方を忘れそうになる。

けれど、人間には、承認欲求なんか置いといて「活動したい」気持ちもあることを忘れてはいけない。

その「意欲・やる気・主体性」に響くような活動を、大人がもってこようとすることが一番に考えられなければならないことだろう。

「それをやったらKY」とか「誰かと一緒ならやる」という前に、一人ひとりにとっての 「やりたい!やりたい!」を導くコンテンツはあるはずなのだ。

体験したい欲求を引き出すような工夫を活動の中に入れられると当然にいい。

 

(11)承認に対して

思ったことを書いていく。

一つは、
現代の人たちは、自身に「"残る承認"を与えてくれる他者」や「絶対的な評価を与えてくれる羅針盤となる他者」が存在する人は少ないということが分かった。

「メンター」や「尊敬できる人」不足なようである。

価値観が多様化し、誰もが対等になった(と勘違い)した結果、自分を導いてくれる対象を特定できない事態が起こっているのだと思う。

自分自身もその一人である。

こういう本もある。

メンターが見つかれば人生は9割決まる!

メンターが見つかれば人生は9割決まる!

 

 そうして、私は「会いたい人に会いに行く人生にしよう」なんて思った。

どうしたら、子どもたちのメンターになれるのだろうか、というのが考えてみたいことだなあ、と思う。

 

もう一つは、
『つながりを煽られる』を見ていて、「使い捨ての人間関係」を感じた。
本書は4月にも読んでいたのだが、そのときのメモにも今回読んでいてもこのフレーズが出てきた。

そのときそのとき良ければよいというような。承認欲求が得られれば、いつでもどこでもといった感じに、人間関係が移り変わっていく。

ネットによるつながりの拡張も手伝って、
つながりの「コンビニ化」「インスタント化」「使い捨て化」を思った。

その影響から、「誰もが人間」という社会的・公共的なコンテンツであり、かつ、「価値がある存在である」という前提や感覚が抜け落ちている。

「世の中には生きていい人間と生きていてはいけない人間がいるかのような価値観」がある。

実際の世の中は、どのキャラはありで、どのキャラはなしっていうのはないだろう。

いわゆる「みんな違ってみんないい」だ。

それなのに、その呪文を唱えたあとの自由を制御できないために、「みんな違ってはよくない」ことになっている。

対応がこれで合っているのかは分からないけれど、法に則って多様性を認める。それではダメだろうか。

どの人間もかけがえがないということ。
私たちの正解は「誰か」というある人に依拠するものではなく、いつだって「人と人との間」にあるのはないだろうか、ということが言いたい。

多様化の侵略は「自分にとって『いる・いらない』」で判断すればよいという考えを広めた。

そうした中で、私は、「いくら多様化でもそれは許さない」という我々の共通の基準がいると思っている。

たとえば、「命を否定する人間になるな!」と。
何が多様化しようが「人間の命の価値」は多様化しない。

繰り返しになるが、「必要な存在と必要でない存在」「必要な命と必要のない命」は存在しないのである。

この打破の一つに私は「知るということ」があると考えている。

灰谷健次郎の『誰も知らない』という話のはじめに出てくる詩は、私が一生大切にしていくもの。

あなたの知らないところに
いろいろな人生がある
あなたの人生がかけがえないように
あなたの知らない人生もまたかけがえがない
人を愛するということは
知らない人生ということ

 

最後に、
自分は使い捨てられたくないから、相手に面倒をかけられないという考えについて。
これを越えるためには、大人が相談相手として、社会と当人を見据えている人である必要がある、と思った。

もし相談されたときに、でたらめを言って、相手に適っていない思われたら、こちら側が捨てられてしまうだろう。
そしてうまく返せなくても、面倒をかけてしまうと尻込みされてしまうかもしれない。

子どもを救うために、大人が間口を開けて構えるには、それこそ、メンターであったり、尊敬できる人物であったりして、相手を救えると思わせなければならない。

そうした中で、どうすればメンターと思われるか、尊敬されるかは、社会と当人を見据えていて、相手に合った不適切でないアドバイスができることだと思う。

正直これは、むちゃくちゃ難しいと思う。

相手にとっての「個人と社会のちょうどいい間」を見つけることは、誰の人生のどの瞬間にも生きているうちは問い続けられるものだ。

「個人と社会のちょうどいい間」を見つけ自分の人生を進めていく力をつけることは、教育の目標そのものとも言える。

それを、第三者が相談に応えて支えるというのは、簡単なことではない。

 

けれど、そのレベルの承認がほしいというところが、今回浮かんだ問題点(もしくはそれに代わる承認)。

みんなが口にせずとも全身で発している言葉は

「誰か僕の人生どうにかしてよ」
「誰かわたしの人生なんとかしてよ」

ってところだろう。

 

さて、どうにかなんとかするために、私たちに何ができるか。

 

つづく。

スポンサードリンク