かならず幸せになれるいきもの

幸せな子ども時代を過ごす子どもを増殖させるための哲学。(旧:それでも幸せな人はいるから)

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「人生は運か?」

「人生って運だと思う」と児童に言われたらなんて返せばいいだろうか。

 

「だって運じゃない?どういう親に生まれるか、それで塾に行けるかとか、ゲームを買ってもらえるかとか」

 

「貧困も?」

「やっぱり運だと思う」と言う。

 

「その中で頑張るっていう選択肢は?」

「その中で頑張れる自分かどうかも結局、運だ」と言う。

(自分を生きるという責任を放棄しすぎだろ、と突っ込みたくなるけれど、そういう考えにならざるをえない背景がなくもない。)

 

今時は、一部の小学生かもしれないが、「人生は自分の手では変えられない」思うようである。

そして、「生き辛い人」は「運が悪かった」で片付けられる。

それは、小学生だから仕方のないところもあると思うが、個人や社会の力でなんとかなるとは考えにくい様子。

 

「個人か社会か」というバランスは、教育の中の、いやむしろ、そもそもこの世界中の永遠のテーマかもしれない。

 

彼らは、この二つの組み合わせにどう巡り合うかを総じて「運」と表現したのかもしれない。

 

しかし、誰かの苦しさを「運」で済ませてしまったとき、そこに浮かぶ「当事者以外の無責任さ」にはたまらない気持ち悪さがある。

 

もちろん彼らは、「自分さえよければいい」という考えなわけではない。言い換えれば、その子たちは「自分のことだけで精いっぱいなのかもしれない」とも思う。

 

当事者を助けるための当事者じゃない人が必要になるのだと思う。

 

さて、ここで、彼らが未来で少しでもうまくいくためにどんな言葉をかければいいのか迷う。

 

将来的に何か苦しい状況が起きたときに、「社会〈だけ〉のせい」と思わないでほしいし、「個人〈だけ〉」のせいとも思ってほしくない。

 

どんな未来であれ「自分なりにできる限り自分を尽くした」という価値観があってほしい。その中で、できない部分があるならまた話は別だと思う。

 

要は(書いていて見えてきたものだけれど)、

彼らには「自分はやれることはやろうとしたか?」を〈考える力〉はもってほしいということかもしれない。

 

「やっていないのに社会のせい、やっているのに個人のせい」にはしない大人に育てたいところだな、とも思った。

 

そして、結局、〈自分の力〉と〈かかわる環境〉によって〈自分の状況や状態〉って変わるっていう感覚を味わえておらず、未来の変数に希望を感じられないというところも問題なわけだ……。

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