かならず幸せになれるいきもの

幸せな子ども時代を過ごす子どもを増殖させるための哲学。(旧:それでも幸せな人はいるから)

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「愛情を受け取る器」

子育てを「愛情を受け取る器を加工する行為」と捉えるとどうだろうか、と考えた。

 

もう何年か、自己啓発本だとか、そういうちょっとした大人の世界に入ってからよく見聞きするのが「感謝すること」だ。

 

感謝することは、何事においても大切されていて、もう使い古された文句なように思う。

 

偶然11月24日は「感謝祭」だった。

http://minimalist-fudeko.com/7-benefits-of-being-thankful/

「あいだみつを」も「おかげさん」を大事にしていましたね。

 

「有り難い」ということは、有り難くて尊いもの。その通りだと思う。

今、生きていることに感謝したくなることはいくらでもある。

 

けど、ちょっと待てよ、と何年か前に思った。

それは「感謝はすれば成り立っているのか」ということだ。

 

私は、感謝は「受け取られるところ」までで、一つのコンテンツなのではないか、と思った。

 

つまり、「感謝する」のと同じレベルで「感謝を受け取る」ということが大切なのではないか、と考えた。

いくら感謝していても、それが受け取られなければ、自分としても感謝した感じがしにくいと思う。

「感謝を受け取る価値」というのは大きいのではないか、と思う。

 

感謝できる大人、と同時に、感謝を受け取れる大人にもなりたいというところ。

 

ここまできて「受け取る」ということがいかに大事かを考えたい。

 

やっぱり、それは、受け取れなければ存在しないのである。

 

そうであれば、「受け取れる力」をつける必要があるということかもしれない。

 

そして、感謝も受け取ってほしいが、もう一つ受け取ってほしいものは、「愛情」である。

 

たとえば、怒られたり、注意されたり、何か大人に対して嫌悪感を抱くようなことが起こったとき。

「てめーふざけるな!誰に口きいてやがる!お前なんか今すぐ殺せんだよ」とか言う子ども。

「〇〇先生は、私たちのために言ってくれてるのよね」と言える子どもとでは、この世界への信頼感というか、愛情の受け皿の違いを感じる。

 

愛情の受け皿は広いほどいいだろう。それは、多様な形を愛情として受け取れる守備範囲が広いということだ。

 

前にも書いたし、またどこかで書くつもりだけれど、「愛」は自己解釈であり、その形は人それぞれに違う。

受け取る人がその形を「愛」だと思えなければ愛情は受け取られないだろう。

愛を伝えるには、「形化」が必要なのである。「愛」が伝わるには、伝える側が加工するか、伝えられる側が受け取れる器に加工する必要があるということだ。

 

私は、愛の形化を思うときに、大体「〈エルガー〉の〈愛の挨拶〉」が浮かぶ。

これは、エルガーが婚約記念に妻へ送った曲であるが、私が聞いても、どの辺が〈愛の挨拶〉なのかさっぱり分からない。

だから、これは、エルガーと妻のキャロラインにしか分からない(伝わらない)「愛の形」なのだと思う。

 

さて、虐待されている子とされていない子、どちらが愛情を受け取る器が広いだろうか。

人に恐怖心を抱いている子どもの方が、ちょっとした優しい行いでも喜ぶことができ、愛情を感じる器が広いだろうか。

それとも、人に優しく育てられて、人を信頼している子どもの方が、少し嫌なことでも"本当は"と思って信じることができ、愛情を感じる器が広いだろうか。

 

私は、後者だと思っている。そりゃいっぱい愛情あげれば器が広がるだろっていう単純な原理だ(胃袋と同じ?)。

まぁ、また「〈甘え〉と〈優しさ〉」って問いは生まれるけれど。

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