それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

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「目指させる」×「考えさせる」〇

学校の価値というのは薄れているように日々感じる。
(今回も)小学校で感じた個人的な話です。

 

どうしても、学校でやっていることに重きを置かれていないように思う。
親にとっても子にとっても。みんな自分たちのコミュニティの維持と、コミュニティで追い出されないことで精いっぱい。
そもそもそういう仕組みの部分があるのだろうけど。(社会を、振りかざして従わせるところが。)


雰囲気としか表現できないのですが、学校の〈必要さ〉のようなものが人それぞれに違って、それぞれなために薄いから一体感がなく、学級が空中分解しているような印象を受ける。

 

「ある事柄が当たり前のものになったとき、その必要性が薄れる」ということが起こっているように思う。

新たな便利も当たり前になってしまったら有り難みが減るような、テレビの大きさの変化はすぐ慣れてしまうというようなイメージ。

 

教育も行ける人と行けない人がいるときには、価値が見出しやすかったのかもしれない。
全員が行けるようになってくると「なんで行かなきゃいけないんだ」という不満が出てくる。

 

毎日寝られる家と食事と嫌じゃない服があれば、お金を稼ぐことの尊さ、学びの価値が感じにくいからかもしれない。

 

その相対的な崇高さにどう気づかせるかが昨今の大人に与えられた課題かもしれない。
昔は貧乏でも幸福感は高かったという話をどこかで見た。

 

病気で死んでいく子どもが少なくない環境であれば、〈生きていること〉に価値が出る。

仕事をすればお金がもらえて物の豊かさを得られる環境であれば、〈働く(人の役に立つ)こと〉に価値が出る。
学ぶことで多くの人の役に立つことができると感じられる環境であれば、〈学ぶこと〉に価値が出る。

 

今、〈ゲームをしていたい〉〈友だちと話していたい〉〈勉強をしたいくない〉という感情が勝る環境からくる価値はなんなのか。
(人生もインスタント化していっているのかもしれない。ある程度生きられればよいみたいな。やっぱり〈どの人間も〉の崇高さが課題。)

 

そして、そんな子どもたちを大人たちは諭せなければいけない。
全員が当たり前にできているからって〈価値は薄れていない〉ということを伝えられなければならないのだな、と感じる。
(〈大局的〉に見るという言葉が最近目につく。また〈哲学〉が特集されているのもそのためかと思う。)

 

「運」ではなく、今ここにいる歴史性に感謝できたらいいと思う。
これは「過去・今・未来の自分を信じい愛おしむ」ってことだ。
そのためには、「どうすると未来を楽しめるか」と「今の幸福感」も必要になるだろうけど。

この記事でもそんなようなことを書いた。

inclusive.hatenablog.jp

 

子どもの言い分からすれば、
・教育内容、コンテンツのせい。
・学校に来る理由が、友だち目当てのせい。
・その先にある社会参加が想像しにくいせい。
と言えばそうなのかもしれない。

 

理想的な人間。真人間になることよりも、目の前の承認欲求で手いっぱい。
短絡的に消費する時間(人生)をどうすれば正せるか(別に正しい人生があるなんて思っちゃないけれど、知りうることを知ったうえで最良の人生を選択してもらうとして)。

どう問うか?

 

文科省でも言っていることだけれど〈メタ認知〉はキーワードかもしれない。

子どもたちに「今何を得ているか」を問うて、メタ認知的発言を引き出すことが大切。

 

要は、省察、内省、考えさせるってことをさせるしかない(なんかダサい結論だけど)。

 

みなさん感じられると思うけれど、こちらがどんなに理想を掲げても、その理想をいいと思ってもらえないと話は進まない。
頭では分かっているけれど動き出さない、みたいなことが起こる。

 

やっぱり
「勉強しなさい」
「お手伝いしなさい」
「早く寝なさい」
では、難しい時代になったのだと思う。

 

それを大人が自覚していないといけない。

 

難しい時代に〈うちの子だけ〉のベストを目指すのではなく、学校側は教員で価値観を共有して個人的なものではない社会の中という大きな枠組みの中にあるっていうところを示せるとよい。その大きな枠の中で、今後も残せるもの残せないものを考えて、個人の要望などからくる最新の価値観に折り合いをつけていくのだと思う。

 

この先、人々はもっともっと言いたいことを言うし、一般論をもつ社会はさらに言われるようになる時代がくると思う。

 

そこで、大人は、たとえば、優先順位を考えるといいかもしれない。
私たちが大切にしたいのは、

子どもなの?

仕事なの?

自分なの?

子どもの社会参加なの?

子どもの心なの?

子どもの能力なの?

子どもの幸せなの?と。
本田由紀さんの言うところの「何のために働くのか、何のために学ぶのか、何のために人を愛するのか」を立ち止まって見つめることなく、仕組みに流されて飲み込まれてしまっているのかもしれない。)

 

誰のせいにするのかも考えないとダメだし、学校や社会をなんだと思っているかもぐちゃぐちゃだから考えないといけないと思う。

 

だから、そんな大人たちがぐちゃぐちゃな価値観の中で何を示しても、子どもに〈目指させること〉はできなくて、せめてその場にいる人たちの納得解を〈考えさせること〉しかできないのだと思った。(それでコーチングが流行ったのかな。)

 

そんな「目指させる」は×、「考えさせる」は〇って話。

 

社会を結びなおす――教育・仕事・家族の連携へ (岩波ブックレット)
 

 

 

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