かならず幸せになれるいきもの

幸せな子ども時代を過ごす子どもを増殖させるための哲学。(旧:それでも幸せな人はいるから)

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昭和36年『わが国の特殊教育』(文科省)

人権啓発研修へ行きました。
テーマは「インクルーシブ社会の実現」です。

 

私は、人権感覚って「知る・気づく」ことでしか養えないのではないか、と思っています。

いろいろ知ったとき、「変だな」「それはおかしい」「ありえない」「なんかたまらない」って思うような気持ちが人権感覚につながると思います。

「そんなの人間として間違ってる」って気づきが、次に誰かを大切にする人間性につながるのです。

自分の命にたくさんのこの星の歴史をのせていく、そうして自分が「これが人間だろう」と思う振る舞いをしていく。自分の命を自分だけのために使うのではなく、誰かのために使えるということや、使おうとしなくても他者がいて共に生きていて勝手にかかわり合っていることを知る。

人権感覚が養われるというのは「誰ともかかわり合っていない」という思い込みからの脱却ともいえるかもしれない。「関係ない」という当事者意識の拒否を越えること。
かかわり合っていないという事実は絶対に起こり得なくて、それは思い込みによるものでしかないわけだから。

それを「知る・気づく」ってことで変容していくのが、人権啓発ってわけだ。

 

話の中で、昭和36年文科省が出した『わがくにの特殊教育』文書の話が出た。
一部排除的な思想があると言っていた。
その思想がわずかでも残っていたからこそ、あの事件は起こったのではないかと考え、知ることで私たちが見つめなおさなければならない、人間の在り方があるのだと思う。

直接文書に出合うのは大変なことだと思うので、検索してみたら記事があったのでリンクを貼る。

triangle-Feb2007-北村小夜先生講演会

(当該箇所を引用。半分より少し下らへんに書かれています)

 これは 1961年(昭和36年)、私が特殊教育を受けに学芸大学に行った時に、最初に読まされた本の一部です。
『わが国の特殊教育』という本の第一章が、『特殊教育の使命』でした。

特殊教育はなんのためにやるのか。ここには2つの目的が書かれています。

1つに
「障がい児の教育を保障する」というのは確かにありますけれど、

もう1つは
五十人の普通の学級の学級運営を、できるだけ完全に行うためにも、その中から、例外的な心身の故障者は除いて、これらとは別に、それぞれの故障に応じた適切な教育を行う場所を用意する必要があるのです。特殊教育の学校や学級が整備され、例外的な児童・生徒の受け入れ体制が整えば、それだけ、小学校や中学校の、普通学級における教師の指導が容易になり、教育の効果があがるようになるのです。」

これがウソだというのはすぐ分かります。今、これだけ多くの養護学校や特殊学級ができているのに、子どもの問題はだんだん増えています。問題が起こるのは、子どもを分けて競争させるからあって、みんな一緒にやればこうはならないはずなのに、こういうことを言っている。

 他の子どもたちを守るために、分けた方がいいと言ってしまっているわけです。

今の私たちは、これが「おかしい」と思うはずです。
なんとなくだったとしても、胸騒ぎがするはずです。

都合の悪いことは、排除すればよい社会になっていっていると話ていました。
すると、不寛容な社会にもなっていきます。

「だって自分は違う。あんなことはしない。」「あの人が特殊だっただけ。」で済ませていれば、まったく同じ心情に私たちも陥っているのです。

「違いにいいね!」
あなたが誰かの居場所になり得るってことを、当事者の一人だってことを忘れたくないなと感じた日。

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