それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

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「なぜ勉強してほしいのか」(勉強させる理由)その1

 

inclusive.hatenablog.jp

 

「なぜ勉強するのか」に対して自分はどう思うのかを書いていきます。

 

「誰か」が抜け落ちてしまっているように感じる 

「勉強は自分のためにするものだ」

これは、間違いないと思います。究極的には、自分の命を永らえさせるのは自分です。

しかし、「勉強は自分のため“だけ”にするものだ」と言われると違和感があります。

 

そこの〈価値観の多様化〉、〈一人ひとりの個性の尊重〉、〈自由化・好き勝手〉がごっちゃになっているような気がします。

抽象的な言葉は、それを〈詳しく化〉できないと、個人のもつ好きな〈ライフスタイル〉に合わせて受け取られてしまうのが昨今です。

 

「自分のために頑張る」ことが大切と言ったとして、

子どもたちは、

「自分のためだけに頑張ればいい」

「自分のために頑張れないやつはダメ」

「自分のために頑張っていると思えればいい」

など自由に解釈します。

 

私は、人は人生を強制されない限り、人は最終的に自分のことを考えて行動していると思います。

(親が子を助けるのは、子を自分に含んでいるからと考える。)

 

なので、前提を他者に置いてもいいのではないか、と考えています。

 

「自分だけの自分だけによる自分だけのための人生」は存在しないのです。

 

「勉強をする理由」に「誰か」といった他人が抜け落ちてしまって、「自分のためだけの勉強」になってしまえば、子どもは「自分なんていいや、大変だから嫌だ、面倒くさい」と思った瞬間に、勉強は「しなくていいもの」になってしまいます。

 

反対に自分の向かいたい未来のために勉強が必要だと頑張れるということもあるので、当然「自分のための勉強」という価値を否定するわけではありません。

 

ただ、その「自分のための勉強」に辿り着くにしても、そこには「他者意識」が存在するのではないか、と問いたいのです。

 

「勉強して〇〇になりたい」だとして、その〇〇になって味わいたいものはなんなのか、と。

 

明日につづくことにします。

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