かならず幸せになれるいきもの

幸せな子ども時代を過ごす子どもを増殖させるための哲学。(旧:それでも幸せな人はいるから)

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【感じたこと9選】再び「みんなの学校」を見てみた

年始の体重が気になる「ハピペン」です。薄々気づいていたけれど、年始のせいにしようという魂胆……。

 

さて、年始の行動的学び(能動的ではない。ゆえにアクティブラーニングでもない)は、「みんなの学校(再び)」です。

今度は、前回一緒に行った人とは違う人も誘って、見てきました。

そして、今回は「木村校長先生」の講演もありってなことなのでリトライ。

映画を見て感じたこと【9選】(だから多いって……)

本気さ

教師の「本気さ」、どこまでも子どものためを思って、勝負にでることができるか。
きついんだけど、やっぱり、本気でなんとか人生に作用しようとしている感じを受ける。
ああでもそれしちゃったら、その子の教育を受ける権利を奪うかな?そういうことじゃないようなところがある。
そこに教科の学習指導要領のための学校じゃない姿を感じる。

一人ひとりを見ようとする。

無理と言われようが、でもそうしなきゃ子どもは死ぬ。
集団の中での個別指導。
それをやろうとしなければしゃーない!ってことを思った。

個人の努力を評価

これは、前回も「いいなー」と思ったことなのだけれど、活動の開始の時点で能力に差がある場合がある。
能力が0の子、100の子といる。
そうしたときに、今日は10を目指すからといって、100の子が余裕をかましていてはいけないわけで、0の子なりの、100の子のなりの、自分を伸ばそうとする努力を評価しなければ意味がないだろ、って話。 

関心をもつこと

 木村校長の人間性によるのか、学校全体そういうムードなのか分かりませんが、「関心をもってもらうこと」に価値を置いているのは、大きくてそして強いと思いました。
「嫌なこと」を言われたとして、その子への教師の指導言が「言われたことが嫌なのは分かる。けど、今、自分が辛いのは関心をもってもらえないことやろ。」と言えるのがすごい。
人がかかわってくれること。それって本当は、見つけようとさえすれば、輝きのあるもの。
それを、「悪いかかわりだからダメ!と言うか」、言い合って「かかわりを良くしていこうとするか」は、見守る大人たちの裁量。周囲の大人の度量だと思いました。
「アイツは3回言ってもダメだったからもう相手しない」のか、「それでもかかわろうとする」のかは大切な視点。
(この辺は〈課題の分離〉と〈貢献感〉で今度書いてみようかな。)

子どもが好き。だから、どうしたいんだよ!

映画を見ていて、本当に子どもっていい!好き!って思いました。
けど「子どもが好き!だからどうしたいの?」と自分に問いかけなければならないと思いました。
「みんなの学校」では、その先のイメージがあって、本当に子どもが好きだから、導くべき方へ導こうと一眼となっていると思ったのです。
「子どもが好き!」だとして、「お前は子どもをどうしたいのか」と。

人を好きな子にさせる

その後に、ふと浮かんだのですが、結局子どもたちが「人を好きだなあ」って思えたらいいなあと思いました。
もしも、いざというとき、辛いとき、ピンチのとき、もうダメだってときに、それでも、人を好きになれていたら、この世界で生きていこうと思い返すことができると思うのです。

いろいろある。嫌なこともある。とんでもないこともある。許せないこともある。けれど、あのとき、あの人が自分にあんな風にかかわってくれて、それだけは嘘にしたくない。どうしたって、あのとき、あの人にかかわって嬉しかった。
本当は人間好きだ。って思えたら、この先の未来でも強く生きられるよなあ、と思ったのです。 

誰を生きていていいと思うかを広げる

「みんなの学校」を見ていると、誰かと誰かの分け隔てなさを感じます。
そこにあるのは、自分の中で誰を生きていていいと思って、誰を生きていてはいけないと思うかの広さの違いだと思いました。
「誰でも生きていていい」と思えたら、たくさんの人にかかわろうとして、たくさんの人を「あり」だと思えるのではないでしょうか。

あの人は、鼻水を垂らすからダメ、うるさいからダメ、立ち歩くからダメ、ちょっかい出すからダメ、意味わかんないからダメ、ちゃんとしないからダメ、かわいくないからダメとか。

「なんで?」と一言聞きたいです。

もし、共に生きたいと思えたら、それが改善されるように、働き掛ければいいのです。
それこそ、自分の人生には関係ない、「関心がない」から排除できてしまうのです。

「一緒に生きられない」の前に「一緒に生きようとしたか?」同時に「一緒に生きるために何かをしたか?」を考えなければなりません。

便利さの弊害か分かりませんが、現代の人生には「スムーズさ」「スマートさ」「クールさ」のようなものに価値があると思われすぎているかもしれません。

安心とは双方向的なものです。どちらか一方が黙っていても成り立つような、オートな自動的なものではないのです。

安心はオートでは得られない。」それが基本だとしたら、私たちは当たり前に誰かに働き掛けなければならないということです。

「それはイヤ」って冷静に伝えたか?

「みんなの学校」の中でも「暴力暴言はやめろ。納得いかなきゃ言え。」と指導する場面があります。
はっきりしていますね。刑法にひっかかって、大人になって困るようなことはやめさせるという視点で指導をしています。それは、ダメなのです。

そこにあるのは、お互いの「フェアさ」のようなものだと思います。
子ども同士もそうですが、大空小では大人同士、大人と子どももそのフェアさをもって接しているように思いました。

理解してもらうこと、知ってもらうこと

上の関心をもってもらうことの喜びとも通ずるのですが……。
たとえば、関心をもってもらいにくい場面もあるのかもしれません。

けれど、その中で「理解してもらえるように、知ってもらえるように努力してみる」。これは大事だと思いました。

そこに価値を置くということは、他人に価値を置くということです。

自分さえなんとかなっていればいいのではなく、大大大大大前提として「他人がいなければ自分は生きていかれない」ってことが周知の事実としてあるのでしょう。

分かってもらうことの大切さ、自分を理解してもらって、知ってもらって、「一緒の時代に存在しているのだ」と感じてもらう。

そこに価値を置けたら学校は強いですよね。
「事なかれ主義」ではなく。やれ人とかかわれてと「事起こし主義」です。

 

今回、挙げた9つを支える理念や考えはどこから生まれるのか。

講演会の内容から少しお伝えすると見えてくるかもしれません。

つづく。

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