かならず幸せになれるいきもの

幸せな子ども時代を過ごす子どもを増殖させるための哲学。(旧:それでも幸せな人はいるから)

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「ガキの使い絶対に笑ってはいけない24時」は、なし?……う~ん………あり……なのかも?

11月22日は「いい夫婦の日」ですよね。今日は1月11日です。この日に結婚式だかなんだか、入籍だったかをした友だちがいました。そのとき「いっ、いい日」を選ばれた二人に、「いっ、いい日」を過ごしていってほしいみたいなことを酔っぱらって言ってしまった「ハピペン」です。

 

冬休みが終わって学校がはじまりましたよね。中学校に向けて、交流学習に励んでいる子も少なくないのではないでしょうか。
もうさっぱり何が何のために何をしているのかみたいのはよく分からない部分すらあるのですが、本人の希望、保護者の希望に応える形で、学校生活が展開される部分もあるわけで……。

 

ふと休み時間に交流の教室を覗くと、何やらわいわい交流級の子たちとかかわっているんですねえ。

 

なにやってんだろ?と思って見てみると、「〇〇アウトー」って言って、何人か後ろ向きに立ってお尻を服をまるめたなんだかで叩いているわけですね。

 

まあ要は「あの笑ってはいけないのあれ」を模して楽しんでいるわけです。

 

いやーすごいなーと思って、3年生もそういえば言ってたなーと。

「笑うと叩かれる」って思考回路は、学校生活の中でありなのか?それを公で演じて楽しんでいていいのか?そんなことを考えさせられるわけです。

 

そして、私の心の中に「もっと相応しい交流しろよ」という言葉が浮かんで来たんです。

 

ただ、即座に「相応しい交流」ってなんだよ、って浮かびました。

正しい交流も正しくない交流ものないのかもいしれない、と思いました。

もちろん、何かしら度が過ぎれば口を出して、抑止することでしょう。

けど、そのときの自分の嫌悪感から来る、交流の否定は「誰のためにもなっていないものだな」と思ったのです。

 

あるコンテンツが楽しいとして、今そこのコミュニティに参加できて関係を体験できているなら、それはそれでいいのかもしれない、と思いました。

交流の子たちがそれをしていて、そこに交じって笑っているのが、今体験しうる交流ってことです。それこそ、それが、交流しているってことなのでしょう。

 

支援の子たちが健全に育つため(この健全も大人の妄想でしかない)の箱庭として交流級が存在しているわけではないのです。

そうして、そこに「所属している」感じを受けた子どもは、その教室で係や当番をやってみようと思えるのだから不思議なものです。

 

そう、問題は「それで笑えない人が出てきたとき」ってことになるんだろうなあ、というところまでで、今日は以上。

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