かならず幸せになれるいきもの

幸せな子ども時代を過ごす子どもを増殖させるための哲学。(旧:それでも幸せな人はいるから)

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〈課題の分離〉と〈貢献感〉について

金曜日、なぜかスッキリ目覚められた「ハピペン」です。水・木とは明らかに違う目覚め。なんで違うのかがさっぱり分かりません。前日の夕飯のセブンのハンバーグ弁当のおかげなのだろうか……。

 

今日は「アドラーの心理学」の〈課題の分離〉と〈貢献感〉について書きます。

この二つと〈共同体感覚〉がまあややこしいと思います。

ですが、勢いで説明してみます。

 

〈課題の分離〉について

前にも少し説明していますが、〈課題の分離〉とは、そのまんまの意味で、人それぞれの課題を分けて考えるということです。

たとえば、〈自分の課題〉と〈相手の課題〉を俯瞰して捉え分けて考えます。

どこまでが自分の課題というかですが、最後にその結果の責任をとるのは誰かという視点で判断します。

よく出てくる例えに「子どもが勉強しない」という課題は誰のものか?というものです。これは、究極に言えば〈子どもの課題〉です。勉強しないことの結果を受け取るのは、親ではなく、子どもなのです。

いや、だって「親の責任」って言われない?

この「親の責任」については、〈親の課題〉なわけです。

それを、その〈親の責任〉という気持ちをどう対処するかは〈親の課題〉なのです。

そして、勉強をするかどうかの判断は〈親の課題〉ではなく〈子どもの課題〉というわけです。

 

ここで、持ち得る大きな疑問があるはずです。

それじゃ、誰も誰とも関われなくない?

その通りです。

 

それをカバーするのが〈貢献感〉です。

 

〈貢献感〉について

これは、面白いです。

簡単に言えば、「相手のためになると本気で考えたおせっかいは“あり”」ってことです。

相手のために」が大切です。

そして、アドラーは「相手のために」を発動するために〈共同体感覚〉という考えを示しています。

『嫌われる勇気』を書いた岸見さんは、「結びつきが貢献感につながる」と言っていました。

〈共同体感覚〉は、自分が所属していると感じるコミュニティのどこにでも発生し得るものです。

「あなたとわたし」「きょうだい」「家族」「友だち」「学級」「会社」「国」「宇宙」など、大小様々な共同体が考えられます。

自分がどの共同体にいると思うかで、貢献の内容は変わってくるし、人はその所属していると感じるコミュニティに貢献できるように行動を選ぶ傾向があるということです。

 

さて、先ほどの「子どもの勉強」を例に考えます。ここで、親と子がどのコミュニティ(共同体)に所属していると捉えてものを考えるかが、とても重要です。

親は「家族」という共同体をイメージして言葉を掛けているかもしれません。

しかし、子どもは「友だち」という共同体をイメージして主張している場合があります。

この〈共同体感覚〉のチャンネルを合わせて話をしないと話が食い違います。

だからこそ〈課題の分離〉が必要になると言えます。

親は「家族」という共同体として「勉強しなさい」と言ったとします。

しかし、それを受け取るかどうかは〈子どもの課題〉ということです。

子どもが「家族」に共同体感覚を抱いていたら、その親の価値観に関心を持ち、たとえば親を安心させようとか、「家族」という共同体に貢献できる考えや行動を選ぶということです。

ある共同体の中で、考えや行動の方針が一致していくかどうかは、〈共同体感覚〉によるということです。

そして、その共同体への〈貢献感〉によって自分の行動を選択しているのです。

 

混乱すると思いますが、一気にまとめていきます。

要するに、その行動は、「誰のための何のための〈貢献感〉から選ばれているか、自分で意識して表出しないと、それはやっぱり届かない」ってことです。

「勉強しなさい」という言葉が「家族」という〈共同体感覚〉から生まれてきたものだとします。

それが親子間で言われたとしたら、それは、「子どものため」に言われた言葉である必要があるということです。間違っても「親の自分自身のため」ないのです。

そして、「子どものため」を本当に思って「勉強をしなさい」という言葉掛けをするとしたら、言葉掛けの言葉は変わるのではないか、というのが話の大筋です。

たとえば「勉強しなさい!」では、端から見ると子どもが勉強をやる確率が低いと感じませんか?
そのとき、命令している大人は、実際のところは子どものことを思っておらず、自分の立場のようなものを考え、それを守るために語気を強めていないか、ということです。

やらせる」になっているとき、子どもを圧力で強制的に動かして自分の立場や安定を保つ、だとしたらそれは、自分のことを考えて言葉掛けがなされてはいないでしょうか。

もし、本当に子どものことを思って「勉強をさせたい」ということが起こっているとしたらどんな言葉掛けが出てくると思いますか?

 

私は、出てくる言葉掛けは「お願い」になるように思います。「勉強しなさい」ではなく、言葉掛けは「勉強してほしい」という「お願い」になるはずなのです。

または「勉強をしないことで起こりうる未来の可能性の悲しみ」なのではないでしょうか。「勉強してほしいのにあなたが勉強してくれなくて悲しい。なぜならあなたが本当に将来幸せになれるか心配だから。」と伝えることになるはずなのです。

もしくは「勉強をしてくれたとしたら嬉しい」という感情なのではないでしょうか。
(この辺りは〈勇気づけ〉というキーワードで語られるものです。)

これらが「相手を思って表出する〈貢献感〉から来る自然な行動の姿」です。

さらに、本当に勉強がさせたければ「かかわり方」も変わる可能性があります。

大人は「こちらの思うある言葉掛けと態度によって、こちらの思う勉強する姿を表出させるべきだ」と考えています。
たとえば、「勉強しなさい」と言ったら「ある程度の時間、まあ2・3時間は、自分の力で自分なりに工夫しながら、黙って座って勉強してなさい」って姿を要求していると思います。

ここで気にしなければならないのは、やっぱり「誰のために?」っていうところです。

「勉強しなさい」の一言で、こちらの望む姿を示してくれる子どもは相当に大したものです。それこそその子にとっては「勉強しなさい」が必要な言葉だったのかもしれません。

しかし「ある程度の時間、まあ2・3時間は、自分の力で自分なりに工夫しながら、黙って座って勉強していられる子」なんてのは、私は多くはいないと思います。

だから、本当に勉強してほしいなら「やるところを一緒に決める」「分からないところを教える姿勢を示す」「適宜、様子を気にしてあげて見守る」「集中している姿を感じたら喜ぶ」ような大人の態度が必要だと考えます。

 

さて、「その言葉掛け・行動は〈貢献感〉から来ているか!」

毎度毎度は、本当に難しいです。

人は、そこまで日々集中して自分をコントロールできていないというのが本音です。

『ファスト&スロー』でいうところの「システム2」が消耗しているとき、「自我消耗」が起こっているときには、純粋に難しいです。

けれど、「システム」が生きているときには、意識して子どもを見てあげたいですよね。

「共同体・コミュニティへの貢献」と考えると、言葉掛けを少し変えることができるかもしれません。

 

まあ、子どもは、なじっても育たないよ、ってことなんだ。

 

そんな13日の金曜日の「ハピペン」でした。

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