かならず幸せになれるいきもの

幸せな子ども時代を過ごす子どもを増殖させるための哲学。(旧:それでも幸せな人はいるから)

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「個人の幸せを叶えるために生きる……」としたら出てくる問い→「個人の幸せに社会は必要か?」

今日は好き勝手思いつきをダラダラと書いてしまおう!っていう「ハピペン」です。そんな、挨拶しだしたらもうなんでもありすぎるか……。

 

これを見ていたら浮かんだこと。

www.nhk.or.jp

 

個人の幸せという尺度で歴史を眺める」という話。

 

私は「個人の幸せの追求」を考えて生活を見つめることってあまりないかな、と。公で働いているからかな。

だけど、まあ言い直すと、「個人の幸せの追究“だけ”」を考えてっていうのが本当だろう。(個人の幸せを考えている部分も絶対にあるから。)

もし、大人が子どもに伝える中で、気にするとすれば、「個人の幸せを考えること」のぜひではなく「個人の幸せ“だけ”を考えること」の是非だろう。

 

それでも、多様化の波は来ていて、私たちの文化は、「個人の幸せの追求」に価値観がシフトしていく可能性がある。

その中で「シチズンシップ」も育てていかないと、国がどうなっていくんだっていうのはあるだろう。「個人の中でそれが生きがいの人もいるんじゃない?」って楽観したくないのが教育の立場ってことかな。

 

個人の幸せだけを追求した先に、社会が成り立つか、成り立たないかは誰も分からない。もちろん「ごめん、やっぱ成り立ちませんでした」では困るが。

 

前にどこかで書いたように思うのだけど、個人の幸せは現状の社会が続いていく前提で語られている可能性が高い。

「○○がしたい」という幸せがあったとして、「あの国ならできるよ」となったときに、「いや、日本でがいい」というわがままがくっついてくるって話。

 

「個人の幸せ」には、「社会の中で」が前提になるのだろうか、それが問いたい。

だとすると、個人の幸せに「社会は欠かせないのか」ということが気になる。

 

どこで幸せになりたいのか?」の舞台が整っていなければ、幸せを実現しようがないのだ。

 

この単純な問いに答えがあるなら、しなければならないことは見えてくるような気がする。

「個人の幸せ」について考えるには「社会について知っている必要がある」ということだ、もしそうなってくると、なんだかすごく学校らしい話で、学校でも指導のしようがあるというか、むしろ真骨頂のような感じすらある。

 

その「〈社会〉の何を知る必要があるか」の具体は千差万別になってしまうと思うのだけど、暴力・暴言しないとかの基本は、個人の幸せのために大切なのだということを伝えられるといいなあと思う。

 

自分の幸せって本当にそれ?っていうチェックする力も必要になるだろうけど。

なんで、それが幸せなの?とか言われちゃって。

 

そうすると、今度は、そんなに幸せって論理で決めていくものではなくて、感情で、もっと雰囲気みたいな、自然な、ふわっとしたものなんだよって言われそうだけど。

 

それでも、社会をつくっていったり、参加したり、社会があるよさを子どもたちに伝えていきたいとも思う。

 

だって、その方が結局私たちの大好きな彼らの幸せ、「個人の幸せ」に必要なものを与えられるってことになるんだって話なんだから。

 

社会で生きるってことはそもそも楽しいと思うんだ。

人間はポリス的な動物ってところにその意味も含まると信じたい。

問題は、その社会で生き辛い人がいるっていう社会の形なわけで。

それを楽しいって思いたいから、個人の幸せに幸せの形がシフトして、叶えられるものになろうと変化していっているのが、昨今なのかもしれない。

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