それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

スポンサードリンク

「つまらなさ」について(この日はおそらく今後の起点になる。)

自転車での通勤中に一番光っている意見が浮かぶと思っている「ハピペン」です。今日は特にビビッと来る考えが浮かびました。通勤中の思いつきの中でも、自転車を止めてまでメモを取るのは半年に一回あるかないかなのですが、今日のは、今後大事になるひらめきだった思いました。

 

「なぜ、いじめはなくならないのか?」という問い

私は、10年近く「自分なりに考える」ということを頑張ってしまったせいで、いろいろこじらせているところもある。

 

しかし、それが、異質なようで、「そう思える人はなかなかいない」とか、「私みたいな視点は必要」と言ってくださるおかげでなんとか仕事がある(と思っている)。

 

その中でも、「なぜ、いじめはなくならないのか?」の答えは自分なりには気に入っている。

 

私は、「なぜ、いじめがなくならないのか?」に「人間は気持ちの悪いことはしない」という考えから、「何か肯定的な感情が起こるから」と考えていた。

だから、「いじめ」以上の「肯定的な感情」が起こることがあれば、人はそっちに移るだろうと思った。

「いじめ」は四六時中起こっているわけではない、ある時、ある場で起こる。

そうしたとき、「なぜ、いじめはなくならないのか」の理由が一つ浮かんだ。

 

「つまらないから」

「なぜ、いじめがなくならないのか?」の答えは「つまらないから」だと思った。

もし、それをしなくても「面白い」状態が起こっていたら、それは起こらないのではないか、と考えた。

「いじめ」と別に面白いことがあるのに、わざわざその面白いことよりもつまらないいじめをするメリットがないと思ったからだ。

ということは、「いじめ」の方が面白いという価値観(面白いというか肯定的なふんわりしたものな気もする)があるときに、「いじめ」が起こるため、「つまらなさ」は人間にとって不変的な価値だから「いじめはなくならない」と考えた。

 

そうすると、少しだけ対処のしようがあることが分かる。

「いじめ」をなくすには、「いじめ」よりも楽しい、面白いなどの何か肯定的な感情の沸く活動を与えられればよいということだ。

 

私は、「幸せな人間は人を殺さない」とも思っている。ゆえに幸せな人間は自殺も殺人もしないのではないか、と。

 

それと同じ原理で、「肯定的な感情」を正しい方法で手に入れる術(場、環境、コミュニティ)をもっている人は、「いじめ」をしないのではないだろうか。

 

その中で、何か「つまらない」ことが起こると「いじめ」は顔を出すということだ。

 

そうなると、もう一つ、私たち人間にいじめをなくすために求められるのは「つまらなさへの対処力」のようなものということになる。

 

それは、もしかしたら、
・「ストレスマネジメント」
・「ストレスコーピング」
・「アンガーマネジメント」
・「レジリエンシーを鍛える」とかってことなのかもしれない。

 

「肯定的な感情の沸く活動」と「つまらなさへの対処力」。

この二つが、「いじめ」をなくす可能性がある。

 

「つまらなさの連鎖」

私は、昨今の世の中のムードの陰気さは、「つまらなさの連鎖」によるものだと考えている。

なぜつまらないか?」が恐らくそのまま社会問題につながっていくのだと思う(ちょっと軽い目線で挙げたけど)。

子育てが大変、仕事がない、金がない、恋人がいない、元気がでない、学歴がない、安心できる家庭がない、友だちがいないなど。

 

この「肯定的じゃない感情」、つまり「つまらなさ」、要は現実に対する「否定的な感情」→「否定感」が、誰かを追いやる考えや言動につながるってことだ。

生れてくる感情、「不快感」、不快感のような何かが、人の人らしい(道徳・法・慣習に則った)行動を鈍らせる。これが「いじめ」の原因。

 

『アランの幸福論』に出てくる考えと近いと思う。

レストランに行って、ウェイターに粗暴な振る舞いをすれば、そのウェイターは家で彼女に手をあげるかもしれないのだ。

そんな風に「つまらなさの連鎖」は回る。

 

ただ、この「つまらなさ」という抽象は、いろいろな言葉に返られて、表現されていて、私は「つまらなさ」って言葉がしっくりきたにすぎない。

 

水谷修さん(夜回り先生)は、「イライラ」と表現していた。

土井隆義さんは、「不安」と表現している。

 

これらの、抽象的な何かを全部まとめて「この世に対する否定感」って言えるかなって思っている。この「否定感」に“何があれば”「肯定感」に変わるかが、この先の未来を幸せに生きる鍵の一つだと思う。

 

そして、生きている中で「否定感」があったことによって生まれてくるほしいものではなくて、できる限り「ピュアな自分」がほしいと思うものを追うことで、妙なブレかたをしないように思う。

結局「性善説」とか、「人間はポリス的な動物である」とか、「マズローの欲求5段階説」頼みなところがあるけど。

 

私が10年以上前に感じた違和感

なぜ、幼稚園の先生にならなかったんですか?

私が世界で一番嫌いな質問。なんて答えれば正解なのかさっぱり分からない。

この質問をされたときに浮かぶ子どもが二人いる。

その子が実は答えだった。なんとなく分かっていたけれど。

 

実習のとき、音楽会の時期に当たった。

練習に入れない男の子が一人いた。

その子はできないことを責められるし、違う存在という目で見られ、異質として扱われる。

けれど、その子はその子なりにやりたくない理由があり、別にやりたいことがあっただけだった。

もっと言えば、別にそれをできなくてもよかった。ただ、その気持ちを聞いてくれる人がいなかった。

私はそういう現場をおかしいと思った。染まりたくないって。

園を運営するために、何のためか分からない一人の子が苦しんじゃう行事を優先する「先生」ってものになりたくないと思ってしまったのだ。

(この辺アドラー心理学で説明されるときついんだけど、とにかく私はなりたくなくて、理由をこしらえた。それは逆に「ならない」という目的だけを追ったのではなく、別の者に「なりたい」という目的を追ったものとも思いたい。)

 

それで、一時、教育から離れることになる。

 

けれど、理想の教育とか、在るべき教育とか抜きにして、「自分が子どもとかかわりたい」って熱があることに、子どもと半年ぐらいかかわらなくなって気がついた。

 

「なんでもいいから仕事をくれ」と卒業した専門学校へ駆け込んでいた(ああ恥ずかしい)。

 

それでもらった仕事が「養護学校」だった。

そこの卒業式で自分に革命の起こる言葉を聞いた。

卒業生のOBが「ここで生きる喜びを教わった」と言ったのだ。

 

私は「ほれ見ろ」と思った。「これが教育だよ」と。

間違ってなかったじゃんか、と。

これは、今日気づいたんだけど、「あの子は生きる喜びを感じられなくさせられていた」だから自分は“違和感”をもったんだ、って。

 

私は、子どもが園でも学校でも、ある程度のコミュニティに出てきて、もちろん我慢とか忍耐を覚えるのは必要だとしても、システム・仕組みのせいで、「つまらない」って思って生きていることに耐えられないってことなんだ。

 

ずっと、その“違和感”と「生きる喜び」を追ってここまで来た。

それを結ぶキーワードが、「つまらなさ」なんだ。

 

私は、

・社会をつまらないって思う子を減らしたい。

・学校をつまらないって思う子を減らしたい。

・集団をつまらないって思う子を減らしたい。

一人ひとりに「地球に生まれて良かったって」気持ちをお見舞いしてやりたいのだ。

 

この日はたぶん起点になる。

結局、手の届く範囲までしか作用しきらないのだけど、その「つまらなさ」全部奪ってやろうって思うんです。

 

「自分を、他人を、地球を、好きなだけ楽しめよ」って伝えていきたいんです。

そう、そのための、さて、そのための、環境整備を整えていかなければいけない。

ひとまず「誰でも生きていていい」って前提を、どいつもこいつもに知ってもらって、みんなが生きていていいって、みんなで生きたらいいって一人でも多くの人が思えるといい。

 

こんな私的な話を、最後まで見てくれた人。
ありがとうございますっ!

スポンサードリンク