かならず幸せになれるいきもの

幸せな子ども時代を過ごす子どもを増殖させるための哲学。(旧:それでも幸せな人はいるから)

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<研究>について

最近はどうしても睡眠を優先してしまう「ハピペン」です。ブログを書く元気を捻出できません(あーどうしよ)。
ただ、思っていることは日々あるので、日にちを遡りながら少しずつ更新していけたらと思っています。そんな中<研究>について思ったことを。

 

先日、国大附属特別支援学校の研究発表に行った。これまでも何度か、研究発表を見ているわけだけど、今更になって視界が開けたというか、<研究>の感覚が落ちた。

 

「抽象的なテーマの具体的な姿をイメージしている」

一番「おぉ」と思ったところです。これによって、<研究>をとことんやっている感じを私は受けました。

 

<人間関係形成能力>のために

・正しく考えること

・コミュニケーション

・自分を知る(キャリア教育)

を柱に研究をしていました(ちょっとうろ覚え)。

 

そして、このそれぞれに、「正しく考える」とは何か。「コミュニケーション」とは何か。「自分を知る」とは何か。の具体が出されていて、それを育むための環境調整など、育むための要素について、とにかく細かく示されているように感じました。

 

研究をはじめようとしたときに、ここまでは出せる可能性が高いですが、その先の具体まで出すには、より多くの時間が必要になると思います。

研究を行う人数が多ければ、その意見をまとめていくのにも方法が必要だと思いますし、一人ひとりの価値観や熱量も違うため、なかなか具体的な姿が腑に落ちて一丸となって研究を進めていくことは難しいと思うのです。

それでも、それを「みんなで納得して」合わせて進めているように感じました。

誰もが一つの方向を示してというのが本当に大事だし、その大人たちの団結した姿は子どもたちの安心につながると思うのです。

 

全大会で言っていた今回の研究の背景に、目指すところは一致していたとしても、その指導法などは一人ひとりバラバラでやっているところがあった、と話していました。

だからこそ、全員で納得しながら進んで行っているように見えたのだと思います。

バラバラにやって目指していたものを「構造を分析」する必要があると捉えたと言っていました。

 

やっぱり「実態に合わせて」が大事

昨今「深め合い」や「学び合い」、「高め合い」などを研究テーマにしていることが少なくないと思います(指導のユニバーサルデザイン化もちょっと流行っていますかね)。

 

今朝、「次期学習指導要領(案)」が新聞でも報道されるほど、社会の関心は次の教育にシフトしていっていると感じます。

 

そんな中、学校では、年度末反省などで次年度の研究方針なども話し合っているころでしょう。

 

「これまでを引きついで続けていくのか」「新たな視点で研究していくのか」は、様々な視点から意見が出されます。

ここで、研究のテーマって重要だなってものすごく当たり前のことを思いました。

もし、テーマが「抽象に留まって」しまったり、はたまた、「これまでを踏襲して終わって」しまった場合、「そのテーマが目指す子どもの姿」は本当に今社会に求められている姿に相応しいのかが問われにくい、と思ったのです。

このミスリードは結構恐いなと思います。
だって、学校全体で、本当は思ったより「そこじゃない感」のある力を育ててしまうってことになるからです。

もし、テーマが「抽象」になってしまったり、「踏襲」してしまったとしたら、どうすべきか。

私が思ったのは、そのテーマに対して「児童の実態」を加味すれば、まだいいかな、と思います。

 

国大附属の研究は「3年間」をイメージしたものでした。

一年一年、不明だったところを明らかにしていき、目指す姿へ向かっていました。

そんな風に「トライ&エラー」(PDCAサイクル?)をすれば、研究が生きたものになると思います。

「児童の実態」に合っているかを考えることで、「そこじゃない感」が少ない研究ができると思います。

(「そこじゃない感」=自己満足ってことに近いですね。自己満足で終わらない研究を、と。)

 

そして「これまでなかったのもの」を

そして、どうせやるなら「これまでになかったもの」か、という視点を大切にしたいですね。

国語で「読む」「話す・聞く」「書く」などの枠で研究をすることもあると思います。

そのためには、どんな力が必要だと思うかを、職員間で話し合って考えることもあるかと思います。

 

けれど、それって全国的にどっかしらでやってない?って思うところがあります。

「児童の実態」っていう方へすごく寄って、その各々の先生方から出る「方法論」っていうのが大事だっていうのもあるかもしれません。

けれど、それって結局「教師の知識量」によるじゃん、という感じがして、「自己満足化してない?」ってちょっと思うのです。

 

だとしたら、いくつか検索でも本でも網羅的に方法論を出してしまって、実態に合ったものをチョイスする時間でもいいんじゃないかな、って思ったのです。

 

すでにありそうな研究をわざわざ私たち流ってことでやる意味ってあんまりないような……。

 

ただそれぞれが思い思いに考えを出してオリジナルのものをつくっていく過程は「みんなでやってる感」はあります。

「“それ”」がいるってこともあるのかもしれません。

「私たち」の満足感が必要なステージもあるってことです。

あくまで、「自己満足」ではなく「私たちの満足」っていうところについて。

その話は次のエントリーで……。

 

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