それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

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<フル・インクルーシブ>についてもう少し(その3)終

つづきです。
(その1)「インクルーシブ教育システムの構築は『フルインクルーシブ』に向かっているプロセスだろう」ということ。(前々回)

inclusive.hatenablog.jp

 

(その2)フルインクルーシブには「『場』と『学びの内容』の視点が必要」ということ。です。(前回)
inclusive.hatenablog.jp

 

(その3)教師が「子ども同士を結びつけること」の重要性(今回)

です。

 

「フルインクルーシブ」のために必要なことは何か?

「知ること」

第一に重要なのは、「知ること」だと思っています。

そうして「知った」あとに、ある子どもの「できること・できないこと」を把握できて、「一緒に・みんなで」を実現できるのかの判断が生まれると考えているからです。

「知らない」ことには、「一緒に・みんなで」は存在しなくなってしまいます。

「知らない」ってことは、結局「存在しない」に近づいていく。

ある子どもを「存在」させるには「知る」しかない。

あなたの知らないところにいろいろな人生がある
あなたの人生がかけがえないように
あなたの知らない人生もまたかけがえがない
人を愛するということは知らない人生を
知るということだ
(灰谷健次郎)

「みんな観」

第二に重要なのは「みんな観」だと思っています。

「知り」→「存在」した後、どんな価値観で行動するかです。

できれば「公」であれば、「みんな」を大切にする価値観で行動を選択できるようになるといいな、と思うのです。

多数決」という「公」ではなく、「みんな」という「公」です。
もちろん取り組みの中で、「多数決」を必要とするときもあります。

それでも、「一人でも違う考えの子どもがいれば、みんなでよりよい納得解を考える」のです。その前提に立っているかが重要だと思います。

たとえば、言い換えると、「自分の思い通りにならなくても人生は楽しい」という価値観もあるのだ、ということを子どもたちには知ってほしいなと思うのです。

私がこのブログでも何度か言っている言葉で言えば「変数を楽しむ」ということ。

 そこにいる「みんな」がいるからこそ、出てくる自分が与える解ではなくて、みんなで創り出す解を楽しめたらいい。

「わがまま」と「いじわる」をなくす

少し話が飛躍するかもしれませんが、子どもたちは自分の思いや考えや感情が認められることに安心を抱きがちですが、実は「少しの我慢」で「『わがまま』と『いじわる』」をなくすことが、一番の安心につながるのではないか、最近は考えています。

そして、その「少しの我慢」の先に、「我慢を開放する発散はある」と思うのです。

ドッジボールじゃなくて、ドロケイが良かったとか。
でも結局、ドッジボールでもめちゃ楽しそうにしているじゃんっていう。

「自己同一性」

我慢や認め合うことから自分の存在に気づいて、自己保存や人生の連続性に気づけるようになってほしい。
これは、今できなくても次があるという「未来への信頼」につながる。

私は、そういう気持ちを育てたい。「失敗しても大丈夫」も同様。それでも「あなたも君も私も僕もいていい」ってイメージ。

「観」が変われば「指導言」が変わる

上記のようなことを考えると、「フルインクルーシブ」は、なるべくの時間でいいから実現した方がいいんじゃない?と少し思えないだろうか。

その際、前にも言っているけど、見方を変えて指導言を変えていけるといいのではないか、と思う。

《自分系云々》

  1. 「自分のことは自分でしなさい!」
  2. 「自分がされて嫌なことは相手にもしない!」
  3. 「自分ができていないのに相手に注意しない!」

の時代は、終わって、「みんなでみんなをよりよくしよう」「みんなでみんなをよりよくするには?」を問えばいいのだと思う。

そうすれば、

《みんな系云々》

  1. 「自分のことは自分でしなさい!」
    ⇒「自分のことでもできないときは手伝ってもらう。自分でできるようになってほしいときは応援する」へ
  2. 「自分がされて嫌なことは相手にもしない!」
    ⇒「相手がされて嫌なこともしない」へ
  3. 「自分ができていないのに相手に注意しない!」
    ⇒「お互いできるように教え合おう」へ

「相互の関係を強くする」ことにつながると思うのです。

この<価値観>をもてるかどうか。

(全体的に結局、「自分系云々」は、指導の大変さや面倒くささ、便利に進めるための言葉な気がする。教室の雰囲気を悪くしないとか、うるささとか。けれど、その子がそうしてしまう方にコミットして、話し合った方がいい。「それが先生は気になるんだけど、みんなはどう思う?」と)

(また、「指導言」の変化は「観」の変化で、時代の<価値観>が移ったことによる。未来永劫この方がいいというのはない。自分系云々が必要な時代もあったのだろう。)

 

「障害のある子どもたちが、障害のない人たちと友だちになることができるように支援すること」

 この記事にあった言葉に注目してみる。

(フルインクルを支持する)「あの人たちは、教師の第一の職務は、
障害のある子どもたちが、障害のない人たちと友だちになることができるように支援することであると信じている。」

<()内は引用者>

「インクル」と「フルインクル」(その1) | ワニなつノート

私は、この視点が必要だろうと思う。その時代や世代を担っていくのは彼らであって、周りにいる大人ではない。

このブログの記事には、もう二つ大切な視点が書かれている。

一つは

①さらに、教師は次のことをしなければならない。
普通に発達している子どもたちを支援して、
障害についての固定的な概念を修正させる

②障害のある子どもたちを支援して、
子どもたちが知り合いや、職場の同僚や、
家族のメンバーや、友人などとの幅広いネットワークの中で、
より効果的に交流できるように、社会的スキルを開発する

そして、そして
③特別なニーズをもつ子どもたちを
通常学級に措置することは、
フルタイムでなければならない!!!

<太字は引用者>

①と②は、即実践で行われてほしい考えです。(③はまだ現実的かは迷う。やっぱりシステムができていないと思う)

ここで求められている「大切な価値」は「社会で自分らしく生きられること」なのだと思う。

そのためには、社会に参加しなければならない。そうしなければ、社会の中での自分を認知することはできないからだ。

 

二つは、

友だち作りや態度の変化や、社会的スキルの発達は、通常学級の中でしか起こり得ない。

理由はかんたんである。

これらの目標を達成するためには、年齢相応の障害のない子どもたちが存在しなければならないからである。

<太字は引用者>

「インクル」と「フルインクル」(その7) | ワニなつノート

 実際的な、人とかかわるスキルを身に付けるためには、フルインクルーシブをして、少しでも実社会的な経験を多く積むことが大切だと思う。

(その反面、通常級という社会が嫌になってしまった場合、「社会参画」する意欲を育むことに失敗する恐れがある)

 

子どもには、同年代の理解者が必要である。一応、大人も一緒の時代にいるけれど、かかわりは、遠のいていくはずである。

だとしたら、地域の子どもの誰もを生かしていくために必要なことは、子ども同士をつなげることだろう。

そのためには、誰もをそこのメンバーとして認識するために、「存在」を「知る」必要がある。

「知ることができず存在していないもの」になってしまえば関りようがない。

 

そして、ここからがつまらなくなるのだけど、そのためには、双方(障害のある子どもにも障害のない子どものどちらにも)にメリットがないといけない(ということになっている。現段階の社会の価値観では、そう感じる。それは便利な子どもを育てたいからだし、学力が(も?)大切で、より多くの子が食えるかが重要だからってイメージ)。

 

コミュニケーションの構造

私のイメージでは、「高さ」と「奥行」が浮かぶ。

通常級の子どもだけでコミュニケーションをしているとき、それは、実際の社会とは違う

コミュニケーションの量は蓄積されて高さは積み上がっていくけれど、質が高くはなく奥行がに薄っぺらなコミュニケーションなのではないかと思う。

コミュニケーションが得意でない障害者とかかわる場合、それはそれでその場面でしか体験できないコミュニケーションがある。

コミュニケ―ションの対象をジャンル分けみたいにしたくはないのだけど、たとえば、「自分とは違う」とより感じる人とコミュニケーションしてみることは、自分の成長につながると思う。そして単純に楽しい。

前にも書いた「異質を認めることによる生きやすさ」についての話。

 

あと、別に仲良くなれ、親友になれってわけじゃない。でも、誰が誰といても楽しさを感じられるような人になれればいいのに、と思う。

誰だって知りさえすれば、付き合える。知ろうと思えるかを相性で片付けるかどうか。知ってこの先もいつも一緒にいられるかが相性で、別に学校でくらい一緒にいられることを知ってほしい。

 

障害者が「いる」のが前提になっているか

上で実際の社会とは違うって表現をしたけど、現実は、もとい実社会は「障害者がいる」というのが事実であり前提のはずである。

それを「存在しない」ものにしてしまっては、それは、本当ではない部分がある環境になってしまうと思う。嘘ではないけれど、本当ではないというイメージ。

 

「えっ、うちの職場に障害者いないけど?」

「町でもたくさん見かけるわけでもないし」

もし、そこに違和感を感じられるなら、あなたはあなたの共生社会のストーリをはじめることができる。

 

でも、まあ、まず大人の邪魔をなくそうか

すぐに出来そうなことで一つ大切にしたいのは、とりあえず大人が「よく知る」必要があるということだ。子どもはその後でもいいかもしれない。

 

上でも取り上げた

「あの人たちは、教師の第一の職務は、障害のある子どもたちが、障害のない人たちと友だちになることができるように支援することであると信じている。」

この言葉に対して付け加えている記事がある。

一つ付け加えるとすれば、
教師がこの職務を果たせない場合でも、
子どもたちはお互いに友だちになることができます。

むしろ、その邪魔をしてきたのが、学校であり、教師であり、過去の「教師の第一の職務」だったのです。

《教師の第一の職務は、「教師が教えたいこと」を「教えてあげること」》だと信じているのでしょう。

でも、教師がよけいな教育や指導をしない方が、子どもたちは友だちになることができます。

上の言葉を、正しく書き変えましょう。

「フルインクル主義者は、教師の第一の職務は、障害のある子どもたちが、障害のない人たちと友だちになることができるように《よけいな支援》をしないことであると信じている。」

「インクル」と「フルインクル」(その8) | ワニなつノート

(下線は「ハピペン」)

この「よけいな教育や指導」が、たとえば「自分系云々」だと思います。人と人を分断する教育。

自己都合だけではなく、「『みんな』を『誰も』を大切にする教育」を目指したいところです。

たとえば「『よけいな教育や指導』はなんだろうか?」と問うことが大切かもしれません。

それには「メタ認知」を強化して内省・省察することが大切になってきますが、「何んために?」を問えば、「していることの意味」に気づけるかもしれません。

教師もそれを問う。その理由が「自己都合」でなく、真に「社会に出ていく上で必要な力」であれば、「よけいな教育や指導」ではないのでしょう。

 

たとえば、「自分のことは自分でしなさい!」は、「手伝い合うことで全体の生産性を下げないため」

「社会に出るまでに自分でできなかったら困るため」

「他力本願の子どもに育っては困るため」

「雰囲気がごちゃごちゃしないようにするため」

なんかがあるかもしれない(ちょー適当だけど)。

↓これを目的に合わせて一掃してしまえばいいのに、と思う。

・生産性なら、目標タイムでも決めて協力させてしまおう。

・自分で出来るようになってほしいのであれば、それを子どもと合意しよう。手伝いは応援に変わるはずである。

・他力本願になってしまいそうかも話し合いで合意しよう。

・ごちゃごちゃが嫌だからと伝えて工夫を促そう。

ってな感じに。

 

便利に簡単にやろうとする時代は終わったと思ってもいいだろう。

回り道が子どもの力になり、定着や一般化につながるんじゃないかな。

 

この論文に示されている「可能性」をふまえて子どもを見つめることで、これからの社会に必要な子ども同士のつながりを考えることができるかもしれない。

 ちょっと長いけど

4.2.2 交流教育の中で
インタビューを行ったI小学校特別支援学級の先生は「教育の場は分けても、意識を分けないことが大切。そうなるために、交流教育で私たち教師は子ども同士の橋渡しをする。」とおっしゃっていた。

確かに、大切なのは「場」にこだわることではなく「意識」の問題だということは納得できる。単に「場」だけ一緒にすればいいということではない。

しかし、常に分けられた「場」において、意識だけ分けないなんてことが可能だろうか。
私はその小学校で、実際に交流学級を何度も体験したことがある。例えば、遠足の際、
私は特別支援学級の 1 人の生徒Mさんに「介助員」としてついていき、私とMさんは普通学級の遠足班に入った。I 小学校の普通学級の生徒たちはほとんどの子がとても優しく、特別支援の生徒を温かく受け入れてくれる。Mさんの班でも、そこの班長の女子生徒が率先してMさんの面倒を見てくれていた。しかし、だんだん班長の仕事が増えてくると、どうしても班長だけではMさんに対応しきれなくなってくるのだが、不思議なことに他の班員がだれもMさんにアプローチをしないのである。結局、最終的には私が終始Mさんと行動を共にすることになってしまった。

恐らく、最初に積極的にMさんを受け入れてくれた班長は、「班長」として「今日特別に来たお客さん」をもてなすという役目を果たさなければと、どこかで負担に思っていたのではないかと思う。
他の班員に関しても決してMさんを嫌っているとか無関心な訳ではなく、むしろ話しかけたりと交流を持ってくれるしかしMさんの行動が遅れてしまったり何か問題が起こると、「班長」か「介助員」として来ている私が何とかするだろうと離れてしまうのだ。

確かに、健常児と障害児の教育の場を分けている現在の教育現場において、普通級の子どもたちにしてみれば、障害児とは行事の際だけに来る「お客さん」以外の何者でもない。

しかもそのお客さんが遊びに来る時は常に「介助員」という、面倒なことを全て引き受けてくれる人付きであり、大変な時はその介助員にお客さんを任せてしまえばいいと感じさせてしまう。

「義務教育における特別支援教育とインクルーシブ教育の意義将来がひろがる教育とはなにか :吉川英里」http://www.f.waseda.jp/k_okabe/semi-theses/10eri_yoshikawa.pdfより

(下線は「ハピペン」)

 「大変な時はその介助員にお客さんを任せてしまえばいいと感じさせてしまう」というのは、実際あるなあと思います。

「大人から大人へのなんとかしろ目線」や「自分自身が仕事している感を出したい」、「子ども同士の軋轢を生まないように心配しすぎる」っていうことがあると、やたらに介入しやすい。

それが「よけいな教育や指導」ってやつなのだと思う。

 

けれど、これを避けるためには、「大人同士」の「インクルーシブ観」がある程度理解し合えている必要がある。

そうやって「誰でも一人ひとりを大切に、学校として職員みんなで育てていきましょう」という風土が相当強くないと、子どもに委ねて手に汗を握りながら信じて待つ・見守るってことはできない。

だって、遅かったり、ミスすれば咎めるもんね。その気持ちの持っていく先は、支援級の子を責めるしかなくなる。そんな言われ方をされれば、教師からも同級生(あえて友だちと書かない)からも、支援級の子が傷けられるしかなくなる。

必殺「子どもの権利条約」で「先生、その言い方って誰かを傷つけていることに気づけないんですか?」ぐらい子どもが言い返してくれるといいんだけど(それを素直に聞く大人がいるかは、知らないが)。

でも現代人は、「承認欲求」優先で、自分が傷つかない安全パイを切るような行動を取るように感じるので、言い返すより自分の下に位置すると考える対象を責める方にいくだろうな……。

 

そっちにいかないためにも、一周回って、子ども同士の「つながり」だとか「結びつき」ってのが大切になるって答えに行きつく。これが「<フル・インクルーシブ>についてもう少し」の着地点。

 

教師の役割として、子ども同士を結び付けること。特に支援級の子と通常級の子のつながりをどうすれば強めることができるのか、が今後考えていきたい視点だ。

まあ、単純に知ればいいだけだと思う。

あとは「暴力・暴言、授業妨害」さえクリアできれば、場を共有することは、フラットにできると思う。

(あと最低限の「清潔」も重要な視点である。仲良くなりきれば気にならないが、集団がある子どもを異質という色眼鏡で見ている場合、入口に立つために「清潔」は必要。それでも「人間一人ひとりの存在そのものを肯定」する風土があれば、「清潔」すら「みんなで支えよう」ってなるけどね)

 

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