それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

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「相模原の事件」と「居場所」と「社会とのズレ」の話(その1)

日差しは春ーな「ハピペン」です。日中は風が冷たいですが、日差しはポカポカですね(そうでない地域もあるでしょうが……)。

 

さて、「相模原の事件」と「居場所」と「社会とのズレ」について。

 

「相模原の事件」について

今回は、「相模原の事件」について。

 

もう言うまでもないでしょうが、重度の障害者は社会に不利益ということで19名が殺された事件について。

 

インクルーシブ教育に関する研修会で、「あの事件は教育の敗北を感じた」と話していた先生がいました。

「あの事件について学校で何か取り扱ったか?」と質問をすると、ほとんど手が挙がらないそうです。

「教育者として、あの事件を素通りして、教育を行っていていいのか」と。

確かにその通りだなと思いました(どう扱うといいっていうのはさっぱり分かりませんが)。

 

しかし、とにかく考えてみることで、何か日常の教育に返していくことはできるのではないか、と思い書いていく。

 

自分なりに、今の子どもの実態と照らし合せながら考えてみたいのです。

 

全3回予定。

 

事件の後、時間を起こすに至った思想、優生思想などがいかに不適切かを説明する記事を見つけました。2つ紹介します。

 

何が「牙」を向き、どのような考えがそれを「払拭」できるか

今日のメルマガで紹介されていたLITALICOの記事(記事自体は2016.9.27のもの)

h-navi.jp

以下引用

私たちがいま最も注意しなければならないことは、「税金のお世話になっている人間は世の中から消えても良い」という“現代版・優生思想”が、世論として市民権を得ることであると考えます。

必要な視点ですね。私は、いじめや不登校と同じで、立ち位置や視点が違うだけで、これは、どこにでも起こり得る話なのだと考えました。

 

私たちの社会の“余裕のなさ”は、障害のある方への配慮の本質を失わせる理由の1つになりうると考えます。

また

優生思想に市民権を与えるもう1つの要素は“孤立”です。

(中略)

この“社会的死”は、どのような人間も陥る可能性があるものです

とあります。

 

この「経済苦による余裕のなさ」と障害者が福祉によって隔離されて「孤立」しているということが、優生思想という「牙」を生み、最もらしい言い訳をふりかざして、暴力による排除に及ぶ可能性があるという話です。

 

また、"社会的死"は、誰にでも起こり得るとあります。

今回の事件は、優生思想という発想で、自分より弱い・劣っている・孤立すべき対象と捉えている存在に、犯人が抱く"社会的死"への不安を覆しなすりつけたとも考えられると思いました。

 

そして次に紹介されている優生思想を「払拭」するための考えが「比較優位」です。

経済学「比較優位」の考え方では、だれしもが社会の一員として活躍できる

私たちの社会は、人間に優劣をつけ他者よりもすべての面で劣っている人間は使い物にならないと見なしがちですが比較優位の理論に従えば、どのような人間も社会の一員として受け入れることが、全員にとって得となるのです。

(下線は「ハピペン」)

もう一つ。 

やつぱり経済面から見出される「牙」とその「払拭」

次は、夏に見た記事。

blogs.yahoo.co.jp

 

 この記事には、

 理念や理想が覆されることに対し、理屈で応じるにはどうするかについて書かれている。

 

以下引用

どんな命にも価値があるとか、いろんな生き方や個性が尊重されるべきだ、といった理念で畳みかけることもできる。

本来はそれで十分だろう。だが、それらの言葉を空虚なものにしないために、それを支える理屈を臆せず考える必要がある

(中略)

理念にはその存在理由が確実にあることを、理念以外の理屈をもって示す作業は重要である。

こういう、理想やきれいごとを理屈でもって証明する試みって大切だと思う。私の好きなジャンルです。

 

社会にとってコストが多大である者は抹殺されるべきであるという発想について。

(中略)

コスト自体は確かに客観的に存在している。

だが「多大」という量は各社会が持つ主観によってしか決まらない。

つまり、仮にコストに応じて生命を絶ってもよいという規範を是認するのだとしても、どの程度の障碍をその対象とするかという線引きは、どこまで行っても社会的にしか決定しえない

(下線は「ハピペン」)

では「その線引きは、一定の基準で済むのか?」という問い。

社会から重度の障碍者が消えれば、それによって少し狭くなった社会が、今度は社会の全体となる。

(中略)

禁断の線は引かない――。これが人権概念の起点の一つである。

すべての人が個人として尊重されるという決まりを守るほうが、一見人権概念で保護される必要がないような恵まれた人も、あるいは次は我が身と思わされるような立場の人も含めて、みな安心して生きることができるという知恵である。

どれほどコストがかかっても人権を徹底して保護することは、いかなる場合でも生死をめぐる人間の線引きをしないという、社会としての誓いを意味する。

単なる他人への情ではないのである。

どこかに線を引けば、線を引く口実は、次々にそのときそのときの社会の価値や、立場の優位な人によって、でっちあげられてしまい生きることへの安全が次々に奪われてしまう可能性がある。

人類全体の利益として、線引きはしないことが、有益だと考えられる。

 

さて、相模原の事件を起こした犯人は、何を思って犯行に及んだのでしょうか。

私は「居場所」というキーワードが関係していると思うのです。

 

次回へつづく。

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