それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

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「相模原の事件」と「居場所」と「社会とのズレ」の話(その2)

 

inclusive.hatenablog.jp

 の続きです。

 

今回は「居場所」について。

 

断ち切られた「つながり」

犯人は、結果的に自主退職をするが、犯行後「施設を辞めさせられて恨んでいた」というように言っている。

 

「つながり」がなくなり、「居場所」と感じられる場所がなくなったダメージは大きかったのではないでしょうか。

同時に 「居場所」がなくなったものにとって「居場所」があるものへの恨みというのも大きかったはず。

 

そこには「自分」には居場所がないのに「職員」や「利用者」には居場所があることへの嫉妬があるように思う。

 

また「価値観が多様化」した昨今、「居場所」がなくなることは、自分を受け入れられなかったことと同義で、自分の価値観が否定されたことを意味する。

 

この「嫉妬」と「否定」はキーワードです。

 

昨今は、ある人の価値観の一部を否定することは、オンリー1な自分を傷つけるものとして過剰に受け取ってしまうことがある(「世界に一つだけの花」が流行ったように今時の人は自分は自分として唯一無二で間違いないという感覚を持つことがある)。

ある人の一部を傷つけることは、その人のすべての個性を否定されたと感じさせてしまうことがあるのだった。

 

受け入れてもらえない理由はどこにあるか?

犯人が自分の考えを受け入れてもらえなかったことは、大きなショックがあったと考えられる(その価値観を受け入れてほしいと切望するほど、同じ仕事をしている立場の同市が理解してくれないことから仕事が辛かったかもしれない。本当はそう思っているだろうという課題解釈をした可能性もある)。

 

しかし、社会生活の中でそのコミュニティに相応しくない価値観を誇示すれば、当然そのコミュニティに所属し続けることは難しい(それが覆るほどの多様化はまだ普及していない。これは、同時に「正されることに慣れる」、相手の考えと組み合わせて「自分の考えを変える」寛容さを一人ひとりがお互いに持たないと成り立たっていかない)。

 

ただ、もしかすると、そのコミュニティの中で価値観の「浮き」に気づけない何かがあったのかもしれない。

また、コミュニティが当たり前のものになってしまって「自分の目に見える世界・コミュニティの価値観」が世界の主流だと捉えてしまっていた場合、思考はどんどん過激になる可能性がある。

 

犯人は、施設で働く中で(もしくは以前からか)、何らかの影響によって重度の障害者を否定する思想を持った。

そして犯人は少なからずその考えは共感され支持を得られるものと思い込んだのだろう。

 wikipediaには「採用後の勤務態度には施設入居者への暴行や暴言を繰り返すなどの問題が多々あり、何度も指導や面接を受けていた」とある。
(引用:相模原障害者施設殺傷事件 - Wikipedia

 

 ただ、こうした実力行使に出るような過激になった考えは、さすがに誰にも受け入れられることはない。それに、あっても、あってはならないものだ。

 

受け入れ先を探す

そこで、犯人は、職場で受けれ入れられないと分かると、次はより多くの主流を巻き込むために、衆議院に手紙を渡すに至る。

犯人は、感じている主観的な価値観を大胆に客観に転嫁したのだと考えられる。

 「自分と同じ思いをみんなも抱いている」と。

 

「 みんなもそう思っているに違いない!」この感覚は、現代の人々がもつ、自分を否定されることへの耐性のなさや、「承認欲求」を求める感覚に似ている。

これの危険なところは、自分の正しさに目がくらんでしまって、自分以外の人が持っているより正しい考えに対して盲目になって、今回の事件のように一線を越えてしまう可能性があるところだ。

 

正しさって何か?

ところで、価値観の多様化が進みまくった現代で、正しさは人それぞれだろうと思う。だけれども、中庸や不易、折衷や普遍的な正しさをもつ価値観があるだろうと私は思っていて、それが、倉敷宣言の共通価値なのではないか、と考えている。

  • 生命の尊重
  • 自由
  • 寛容
  • 民主主義
  • 多元的共存
  • 人権の尊重

これらを大きく踏み外さなければ、誰かを大きく傷つけることもないだろう、と思う。

どんなに誰かが正しい考えを示したとしても、この共通価値だけは越えてはならない一線なように思う。

 

思想や感情は大切である。ただ、それは、一線を越えてしまっては、表現の度を越してしまう。

 

共通価値以外の価値観については、いくら指示する人、賛同する人がいても「正解はない」と思った方が、苦しむ人が少ないのではないだろうか。

 

ある価値観とある価値観を「100:0」「二元論」「二項対立」で考えて正解を求めようとすることをやめていく時代が、これからの時代なのだという認識をより多くの人がもてると良い。

 

端的に言えば「ちがいにいいね!」ができればいいだけだと思う。

 

居場所捜し、居場所奪い

推測にすぎないが、犯人は、自分の考えを示したいと考えていたと思う。

それは、自分の「在りか」や「居場所」を確保したいと考えたからではないだろうか。

 

犯人にとっての居場所とは、職場という経済的、人間関係的、物理的な居場所もそうかもしれないが、もっと広い漠然とした「社会における居場所」だったのかもしれない、と思う。

「なんとなくこの世に自分が自分として存在している感覚」「自分が否定に値せず、正しいという感覚」など、これらを許容されることで、社会内で居場所があると感じようとした。

 

ところで「社会における居場所」と考えたときに浮かぶのは「秋葉原の事件」である。

 あの事件でも最終的にネット掲示板という居場所を失った孤独を感じ、犯行に至ったと考えられる。

 

二つの事件には、自分と対象者との「もっているもの」と「もっていないもの」との比較があるように思う。

 

たとえば、犯人の価値観に、

「犯人がもっていて、利用者がもっていないもの」

「利用者がもっていて、犯人がもっていないもの」

の差があったのではないか、と思う。

(相模原の事件の犯人は、「幸せはおおまかにお金と時間」と言っている。なぜ「時間」と「お金」に価値を置いていたのだろう……。) 

犯人が失ったもの

職場を辞めて、犯人は、自分がもっていたものを失った。

しかし、それを「利用者がもっている」ということは残った。

そして、「犯人がもっていないもの」を「利用者がもっている」ことを相応しくないと感じた。

それがどんなものだったかといえば「社会的な居場所」だったのではないか、と思う。

そう考えると辻褄が合う(まあ随分勝手な妄想であることは重々承知で)。

 

しかし、その一線を越えてしまうほどの「居場所」の魅力とはなんだろうか。

 

現代の「居場所観」と「つながり」について

 前にこんな記事も書いた。

inclusive.hatenablog.jp

 

「キャラ化」などの話でも散々言っているのだけれど、現代は「承認欲求」が満たされなくて、渇望・飢餓状態である。

 

「自分がいてもいい居場所」があると、人々は、その居場所をキープするために尽力する。

ときには、「自分が居場所」と思う場所のルール以外は一切無視で、そのコミュニティがもつ価値観を優先し行動が犯罪に及ぶこともある。

 

その背景にはあるのは「価値観の多様化」である。

価値観が多様化すれば、人それぞれ良いと思うものが変わるから、承認される機会が減る。

そのため、安定した承認を確保するために二つの現象が起こる。

  • 承認を得るために偽ること
  • 否定されないようにするために他の価値観を否定すること

である。

誰もが正解を知らない中で、否定されないために「摩擦をなくして承認し合う関係」を維持しようとする。疑心暗鬼になりながらも、そのときそのときの偶然的に発生したつながりを守ろうとすることで、承認を得ようとして心を消耗していく(ノリに合わせることだけに意識を向け続けて疲れるってこと)。

 

価値観が閉じたコミュニティの行く末は、人が減って弱体化していくか、刺激が減って過激化していくかである。

 

たとえば、これが、学生のときは、ただコミュニティから抜け出せばいいだけかもしれない。明日を信じているうちは、別のコミュニティがあるはず、と小さな希望を抱いて次に進むかもしれない。

 

では「社会人だったらどうか?」が今回の考えたいこと。

 

「経済苦」と「孤独」が飲み込む「つながり」

前回の記事で、LITALICOの記事を参照しながら、「経済苦」と「孤独」が、優生思想を後押しする可能性について話した。

 

しかし、今回の犯人は、元職員であった。

そこに「利用者とのつながりはなかったのだろうか」。

もし働いているときには「つながりがあった」として、犯行時には「つながりがなかった」としたら。「なかった」としたら、それは何かによって「つながり」は「なくなった」ということだ。

 

職場が彼を許容できなかったのか、彼が職場を許容できなかったのか。

 

その「つながり」は、もしかしたら「理想の自分」と「現実の自分」との「つながり」の可能性もある。

理想の自分は、「経済的」に十分ではなくても「仕事」があり、十分ではなくても役割があるような「居場所」がある自分。

現実の自分は、「経済的」に苦しくなってしまう自分。「居場所」がなくなり「孤独」になる自分。

 

この「理想の自分」を失う感覚が、「現実の自分を否定」する場合、「現実」の原因を自分以外に持ち出し、理想の自分はさておき「現実の自分は間違っていない」という存在証明のための強行に出ることがあるのかもしれない。

  •  「理想の自分を目指すか」「
  • 「現実の自分を否定されないようにするか」

は似ているようで違う。

 

どちらも、承認の感覚としては、同じなのかもしれないが。

 

言い換えれば、

  • 「自分を上げるか」
  • 「他者を下げるか」

ってことだ。

 

その「他者性」を失って、後者の考えで邁進したとき事件は起こる。

 

「社会とのズレ」へ

彼は「居場所」を失って、「自分が存在している実感」を失ったのかもしれない。

その背景には「社会とのズレ」があると考える。

人は「社会とのズレ」に気づいたとき、

  • 社会の考えを取るか
  • 自分の考えを取るか

の二者択一に迫られるのだろうか。

何度も言うが「そもそも正解はないのに?」、自分の考えってどちらかに「決めなければならないもの」なのだろうか。

「100:0」の思考があり、自分を否定することは、自分そのものの否定につながると捉える昨今、自分を否定する選択はできなかったのだろう。

 

「居場所」を感じられないことは「生きることへの不安」「自分の存在についての不安」へつながる。

 

次回 「社会とのズレ」に続く。

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