かならず幸せになれるいきもの

幸せな子ども時代を過ごす子どもを増殖させるための哲学。(旧:それでも幸せな人はいるから)

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重い子・軽い子

1週間終わったー!な「ハピペン」です!

 

ただ疲れすぎてはいない。上手く力も抜きつつ、自然体で出来たってことかもしれない。

 

常勝で上昇です。やってきたことは間違っていなかった!?国・算への支援がどハマりで、落ち着いて学習して子どもたちは、笑顔で帰って行きました。

来週も来たいと思ってくれていると嬉しい……。

 

はい。そんなんで今日思ったのは、学校って不思議だな、と。何に給料が出ているだろうか、ということです。

正直、疲れ具合は、子どもによって、そういう意味では子どもとの相性によって。決してあの子が大変ってことでなく。大変な「クラス」って表現もあるが。だからってその他諸々があったとしても「給料が上がる」わけではない。

人権的観点から、そりゃそうだろうけど。

 

給料は、疲労感やストレスへの対価ではないってことだ!(当たり前だ!)

 

いや、だって、「重い子」「軽い子」って表現の会話って少なくないと思うんだよ。(kgでなくてね。)

 

じゃあ、ところで、私たちの何にお金が払われているのだろう?と。

 

ぶっちゃけは、教育課程を修めていくことへの給与な気がするけども。

予算は、ある「枠」に対する人数で決まってくるよね。

ただ、やっぱり、今年の給料と昨年の給料が同じってのが(ベースアップはあるよ?)不思議でならない。どこに対して「同じ」なのだろう。

 

人数は正直減った。負担感も減った(あくまで感。オレの力量のせいってこと)。

なのに!って思って、「ああ」って気づいた。

 

私たちは「伸びしろ」に対価が支払われているのではないか、と。

あるゴールまで行ったらいくらではなく。

あることをやったらいくらでもなく。

一人ひとりをこれくらい伸ばしたらいくら。

この「これくらい」は誰に対しても共通な物差しにできるかな、と思った。

昨年までのあの子たちも「こーん」だけ伸ばした。

だから、今年の子たちも「こーん」だけ伸ばす。

その内容とか、負担感とかではなく。「こーん」だけ伸びているかが価値だから、給料は変わらない。

 

そうすると、大変さとかは置いといて「目の前の子を伸ばすこと」に価値をもってる自分がいるって思えた。

(もしかすると「こーん」だけ伸ばそうとしたっていう「伸ばそうとした」が限界な価値なのかもしれないけど。)

 

 

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