かならず幸せになれるいきもの

幸せな子ども時代を過ごす子どもを増殖させるための哲学。(旧:それでも幸せな人はいるから)

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もうちょっと「エピソード記述」

朝は電車で本を読めている「ハピペン」です!これが今回の異動で一番嬉しいことかもしれない。朝の15分程度なのだけれど、確実に本を読み進めることができる!すごいぜ!

 

ってわけで引き続き「エピソード記述」について、こちらの本『エピソード記述入門―実践と質的研究のために』から気になったところを抜粋する。

 

第3章(P167)からは『エピソードが描けないという悩みの出所』についてが書かれいる。

 

ここの章が、「エピソード記述」を行うための「人間性」のような、一歩踏み込んだことが書かれていて、哲学的で私は好き。

前回にも『関与することで精一杯である』という理由などが書かれていると紹介した。

inclusive.hatenablog.jp

 

次に『何が問題なのかが見えない』という理由が書かれている。

何が問題なのかが見えてこない、そのためにエピソードが拾えないというのも、(中略)しばしば抱える悩みの一つです。ほとんどの場合、それは関与観察に臨む人がどういう価値観に立ってその場に臨めばよいかが分からないところから来ているようです。

(P171 下線は「ハピペン」)

その通り!と思いました。要は「どの価値観か」に立てていないから、「関与することで精一杯」で、現象を落ち着いて捉えることができていないってことなのだ、という頭の中でごちゃごちゃとしていたことが、明文化されていると感じました。

 

そしてさらに、

これはもう少し踏み込んでみてみると、単に自分が一つの価値観をもてないというよりも、人と接するときの今の自分の気持ちを下敷きにして、そこでの周囲の人たちの生き様を見て考えるという、ごく当たり前のことを当たり前にすることが分からない。要するに、自分で自分を認めることができない、つまり今の自分に自信がないということに行き着くということのようなのです。

(P171 下線は「ハピペン」)

(鯨岡さんは、ちょっと語り口が『加藤諦三』さんにも似てるような気がしてきた。それは、置いておいて……。)

グサッ!と来ますね。

瞬間的に浮かぶのは「心そこに在らざれば、見れども見えず、聞けども聞けず」の言葉です。

「そう何もかも、何もかも『私の心がなかった』のがすべての根源。大変申し訳ございません。」って気持ちです。

 

「いや、見ようとしてるし!頑張ってるもん!」って、可愛い顔をして言いたくなるけれど、実際にエピソードが拾えてねーんだったら、そうなんだろうよっ!ってもう一人の自分が可愛い顔した僕を蹴る。

 

「どーも、しやせんしたっ!!きりっ!」ってな感じで、こーんくらいぶち壊れたくなるほど、ダッメージなお言葉でしたっ。(別にそーんなに自信がないって感覚もないんだけどなあ……けど、奥底にそういうのがいるのかもしれないって思ってしまう……。)

 

要は、どこか「他人の顔色」を気にしちゃいないか?って話なんだろうな、って。

そりゃ、空気を読まなきゃ送れない社会生活もあるわけだけど、「いかに子どもを見られるから」って、それって「己の本心で見とんのか!?」って話で、「いやーだって公務員だよ?私情は挟みませんよ、旦那」って言いつつも、「己がない人間が人を育てられんのかい!?」って言われりゃ、「へへーい。そうっす。そうっすよ、おいらもちょうどそう思っていやしたところでやんす」状態。

 

さて、また来た価値観の二分化。うざったいのは、立ち位置を決めると、そうじゃない方の価値観で柔軟に否定してくる1・2・3・4番辺りの人なんじゃないかと思うのだけれど……。

 

ホリエモンも新書『すべての教育は「洗脳」である?21世紀の脱・学校論? (光文社新書)』の「あとがき」で、「やればいい!」って言ってたよ。「こういうのやりたい、どうですか?アドバイスくださいって言ってくる人がたくさんいるけど、僕は『やればいい!』って言っています。でも、やらない。その原因が学校による洗脳。」みたいなニュアンスを書かれていました。

 

そうだよ!上!「やればいい!」だよ。まあ、それで、なんかあってからじゃ遅いってのは分かるから十分な吟味は当然に必要だとしてね。

 

話が跳ぶんだがね。この回は、「エピソード記述」の話ってよりは、「価値観」についての一幕になってしまったよ。暗に古い人々への文句でしかなくてね。

 

なんとなくもうちょっと続く「エピソード記述」について……また、次回。

inclusive.hatenablog.jp

 

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