それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

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「よくなりたい子」と「声の大きさ」

目が痒すぎる!「ハピペン」です!目を気にしすぎて、その仕草を子どもに真似される始末。電車の乗り換えの人たちがたくさん横を通るだけで目が痒いよー。

 

その真似をする子。今年一番近くにいる子。いつも教師に非難されている子。

声が大きいのが課題だったのだけれど、今日「声の大きさ表」をシンプルなものに変えた。

 

「5段階」から「3段階」

「かたつむり→ねずみ→ねこ→いぬ→らいおん」という謎の指標から「1→2→3」の数字表記に変えた。

私自身がらそうなのだけれど、動物の声の大きさ表では楽しくなりすぎて混乱する。大きさとかよりも、思うままに想像した声を表現したくなる。

動物の声の大きさ表を声の大きさだけに一般化するには、困難だと思う。面白いのはこれを全校で使っていて、全教師の「かたつむりの声観」や「ねこの声観」が一致しているのかどうかだ。

あの先生はこれで「いぬ」だったけど「らいおん」だって言われた、みたいなことが起こるんじゃないだろうか。

そしたら「いいじゃん3段階で」って思う。

 

ちょっと話が変わるが、その子は、特性を否定されて追い詰められたとき混乱する。

問答無用の叱責。お前の行動は明らかにおかしいという指摘。あなたはなってないという前提の指導。

これらは、すべて、人格の否定だと思える。

どうしてかと言えば、配慮や支援さえあればできるからだ。

現にその子は「new声の大きさ表」を見て声の使い分けが出来た。出来る能力があったが、指導法(声の大きさの示し方)が悪かっただけとしか言いようがない。朝の会でも発表してもらって高学年からも「上手!」と丸を貰えた。

その子に「よくなろうとする気持ち」があって、それを潰しているのは大人だろうと思う。「よくなりたくない子はいない」し、「よくなりたい子」に方法を提供しないでやっつけても仕方ない。

できることをできない状況にしてしまっているのは、その子ではないのだ。一般的な環境で正しい振る舞いを発揮できないから叱責されるとしたら、それはただの差別じゃないかって思う。

もちろん注意はいる。ただ、分かるようにやれって思う。「できてなさ」を知らしめても何にも理解さしられていないからできないままなのだ。その責任はどこにあるか。

正しく示せばやれる。そのポイントを見抜けるかどうか。

許される真っ当な理由は、周りの子にずるいと思われていじめに発展しないために見せしめにこちらも辛いけれど仕方なく叱っているという理由くらいだ。

ただ、そんなくどい理由で自分のしたい注意をするんだったら、いいから、黙っててほしい。

よくある光景なのだけど、給食で食べたいものだけを増やして食べたくないものを残す。その子は「それはお行儀が悪いから次からあなたは給食を増やしてはいけません!」ときつく言われていた。その子はなんらかの感覚刺激がある。歯磨きも好きじゃない。給食はいつも一品しか食べない。

そういう子に対して、好きなものを増やすことをお行儀がとか言ってんのは、一理はあるけれど、そういう考えもあることを説明するくらいが妥当で、結局捨てられていく給食を好きなものだけでも食べられて楽しめるならそれでいいんじゃないかなって。

「してはいけません!(キリッ)」てのには、その子のためではなく、その子を嫌な気持ちにさせたいだけなんじゃないか、って悪意を感じた。(これだと私の見方が偏ってるだけって言われそうだけども。)

教師が、その子が出来る手立てを思いつかないストレスをその子にぶつけては、その子の問題行動はよりドツボにハマる。その自爆のエネルギーが全部子どもの否定にいくんだからすごい。ちゃんと"させる"ことでは、子どもは育たないだろう、って考え。

振り返って気持ち良さを尋ねているならちょっと別だけどね。

 

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