それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

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出来るようになるっていうのは大切なことだけど

昨日今日と寒くない!?と思っている「ハピペン」です。町には春めいた格好の人だらけだけど、みんな寒くないの???

 自分を遡ることが続く。自分は「何者」なのかよく分からない。昨年の夏以降、映画「何者」の軽快なCMばかり浮かぶ。最後にキレッキレにタイトル「何者」が言われるCM。

 それは「ここではないどこかへ」感があるからなのだろうか?

 そうして自分を遡る中で思うのは「自分の出来事はありがちで重くはないだろう」ということだ。

 ただ、たとえば父に対して「一緒にやりたかった」という思いが浮かぶ。

「一緒に」は子どもも好きな手立てだ。

 私は、子どもは「出来るようになればいい」と思っているので「無理矢理一人でやらせる」という手立ては取らないことが多い。

子どもは「やれる!」と思えば勝手に一人でやる。その大人の予測ミスというか、勝手な都合での「一人でやれ」が残す傷が気になるのだろうなあ。こういう時に「いないものとして扱われた感覚」が含まれるニュアンスって分かるだろうか。

たとえば、一人でやりたくないのに一人でやって出来たことを認められても子どもは嬉しくない。そもそも褒められるためにやってんじゃないしね。(一人でやれるような支援がある場合はまたちょっと子どもが抱く感覚は変わると思う。あと、一人でやることが価値づいていれば違うだろうけど。)

そして、子どもは「一人で」出来るようになりたいって最初から思うわけじゃないし、それは適切な依存が済めば自然と起こるものだと思っている。

私は、出来るようになったけど残る傷があるってことを蔑ろにしないようにしたい。

発達障害系の子たちも、たとえば、18歳までにアスペルガーADHDの子の社会性は、適切な療育を、受けていればある程度の水準までいく可能性が高いと「杉山登志郎」の本で見た。

それよりかは、その成長過程で受けた指導による自尊感情の低下の二次障害の方がなかなか覆せず、立ち直れない人が少なくないとあった。

散々「とある子ども」を否定して育ててその子が出来るようになって能力を残したとしても、その指導法が傷も残し、そもそもの生きようとする気持ちを奪うことがある。

あの人に否定されたことは、この人に肯定されてもずっと残るってことをどうすれば拭えるのか。

なんとなく「どうやって直すのかわからないものを壊し続けるのはもうやめてください」という伝説のスピーチが浮かんだ帰り道。

誰も傷つかないで誰かを守る方法があるってことを教師は示したいね。

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