かならず幸せになれるいきもの

幸せな子ども時代を過ごす子どもを増殖させるための哲学。(旧:それでも幸せな人はいるから)

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「批判」ってそれやめない?

あーうざったいって気分な「ハピペン」です。

今日はあえてね、あえて口悪く書いちゃうから。

 

必要なことはね、いつだって他人をリスペクトだよ。

 

「去年はこれで出来てたのに」

「◯◯くんはもっとできると思うよ」

 

「あーはいはい」

それ一番いらないからね。

言い方のニュアンスで何を伝えたいか、サポートしようとしてるのか、批判したいのかよく分かるわ。

 

そして、その自慢気に示すワンアクションで指示が通るのは信頼関係が出来てるからだからね、それは行動を選んでるんじゃなくて、ただの反射だろう。

 

同じ動作して同じように動くわけないじゃん。

本人だってその内実は分かってねーよ!そしたら、出来るじゃんいつも!

だったら、その子を得意なあんたをいちいち呼んでやろうか?って話だわ。

 

その行動が一般化してないんだから、指導が注意にすぎなくて、指導じゃなかった証拠じゃないか?

 

そうやって、同僚を批難した圧力は、下手すれば、子どもに向くからね。

たとえば、静かにさせられないことを批難されれば、担任は強行策に出るしかなくなるかもしれないんだよね。「きつく怒鳴ればいいのか?」って。あんたらいつも怒鳴ってるけどさあ。

そのアドバイスが「もっと普通級みたいにかかわっていいと思うよ」って、「きつく怒鳴れって?」っていうか、だったらなんでそもそもこっちにいんのよ?と。

それに、「支援」に入ったからってみるみる良くなるってわけじゃないからね。そんな支援が特効薬になってたら誰でも支援に入るわ!

まあ、少なくとも、交流級の集団の中で怒鳴られる回数は減るから支援級の方がマシってのがあるだろうけどな!

 

「普通級的な指示」と「支援級的な指示」があるって話の時点でなんか変な気もするし。別にどこ行ったって子どもに伝わるように言うだけだわ!

 

ただ、私のこれすら「批判」なんだよね。その子には「普通級風」にかかわった方が力が付くのかもしれない。

 

けれど、この話も、その子が去年育っていて、「自分で自分から」出来るようになっていたら出てこない話なんだけどね。

 

でも、やっぱり私の指導観、指導法が悪いんだろうか?じゃあなぜ、その子は、私の前で正しい振る舞いができるのか。

 

これは、紛れもなく「行動が人に依拠している」からで、ある人の主観、たとえば「うるさい」に対して静かにする力があるだけってことだ。

これを「TPO」によって「自分を選べるようにすること」、「自分で自分から出来るようにする」指導に取り組んでいるだけなのだけれど……周りの人はすぐ黙らせられないと嫌みたい。

よそ者が、子どもを見ていて、良い姿だけを表出できないのが不安で仕方ない、と。それはなんのための不安なのだろう?その子のためかな?本当に?

 

あと、「去年は、普通級の子と同じように扱っていましたから!」

これもなんなのかよく分からない。だからなんだよ、って。合理的配慮的に、発達障害者支援法的にいいのか、その明言は。

 

新人の失敗を指摘するのって楽しいんだろうかね。

要は、お互いイーブンじゃん?

自分の指導こそ正しい根拠は自分の気持ち良さだよね?

 

今後に乞うご期待だね。

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