かならず幸せになれるいきもの

幸せな子ども時代を過ごす子どもを増殖させるための哲学。(旧:それでも幸せな人はいるから)

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「暴力」はどこから生まれるのか

今日は、早く帰ってきた「ハピペン」です。無理に無理しなくてもいいかな、と。なんとなく周囲へのパフォーマンスのために、いようとしている自分がいる気がして、さっと帰ってきてしまった。そもそも残るほど偉いって価値観は気持ち悪い、そこを気にしている自分はもっともっとキモい。

 

4月が終わる。この学校にも慣れただろうか。今日、初めて職員室に入ったときの違和感を思い出した。「ここ天井低くね?」っていう。

ただ、慣れるもので、その圧迫感は感じなくなった。狭い職員室も、肌身に合うようになってきた気がする。このパーソナルスペースの中が楽しいかは、信頼関係によるのだろうな、と視点を再構成した。

 

けど、慣れない違和感もある。それは、この学校では、大人が子どもをよく怒るってところだ。叱ってんのかもしれないけれど、子どもは「怒る」と「叱る」を区別しているのだろうか。これって主観の話なんだっけ?それとも、受け手の感覚で決まるものなの?と強く思う。

「怒る」と「叱る」

そもそも私は「叱る」も「怒る」もどっちでもいいと思っている。そんなの主観だと思うからだ。大体この文脈にあるのは、「怒る」に対する悲観的な目線でしかない。(怒るための言い訳を「叱る」でこしらえようとしてないか?)

そして、私は誰かが怒ることも否定しない人間である。以前、些細なことで怒る子、激高する子に「怒らない」という言葉掛けを何度もしているときがあった。これは、つい口をついて出てしまいがちな言葉だ。

「そんなことで怒らないよ」といった言葉掛けって日常的にあるんじゃないだろうか。

けれど、ある研修で『怒ろう』という本を紹介してもらって、そのときの話で考えは一転した。

そのとき教わったのが「怒ってもいい。ただし怒り方を変えろ。」というものだった。

「怒る」を否定しない

「怒る」を否定するってことは、「怒り」という感情を否定するということだ。子どもの「怒り」を否定することは、大きく言えば人権侵害かもしれない。感情を抑圧して子どもが育つと考えるなら、それは異常な大人が強制して変わった姿を自分の成果にしているだけだろう。

「怒らない」という指導は、実は、事実と教師自身が持つ感覚からくる飛躍した指導言で、本来ならば「怒り方」を変えてほしいのである。

ある発達障害の子には、これが「スッ」と入った。「ずっと怒らないのは無理だと感じていたけれど、全くできない自分を変だと思うしかなかった」というようなことを言っていた。人間は「怒らない」ということは無理なのだと思う。その子の言うように、ある感情を捨てろってのは全く無茶な話だ。

「怒ってもいい。怒り方を変えろ。」というメッセージは、腑に落ちたようで、その子も自分を俯瞰することができて、「怒らない」という戦いから「どうして暴力をふるいたくなってしまうのか」という戦いに移行していった。そうして視点が変わると、殴らないで怒る方法を考えればいいだけになり、その子は本を読む、その場から離れるという手立てを自分で取れるようになった。

「暴力」はどこから生まれるのか

さて、本題の「『暴力』はどこから生まれるのか」。

今日、6年と初めて給食を食べた。支援の子がいる班に座って一緒に過ごしている中で、班の子が「ちゃんとAさん怒らないと」と言った。

私は「なぜ?」と思った。

まあ「やらせるため」ならいいのだけれど、私はあまり「やらせる」ために「怒る」ことはしないタイプなので、ここがこの学校での一番の違和感だなあと思った。

「やらせる」ことが目的の「怒る」は、短絡的だなあと思う。私は、自分からやるようになるための「指導」が好きだ。

「怒ってやらせる」というのは、結果の即席性を求める人が多いってことなのかもしれない。便利さを追求した高度経済成長時代、コンビニエンス化、インスタント化のちょっと古い価値観なような気がする。(かなり適当に言っているだけなので気にしないでほしい)

「怒る」で「やらせる」のあぶないところは、まさに行きつく先が「暴力」なところで、もしある「怒り方」で相手が動かなかったときには「怒り方」を過激にしていく以外に手がない。機転が利いて自分のやり方の過ちに気づければいいけど。たとえば、「やらせる指導」の真反対的に位置するのが、「コーチング」や「マネジメント」、アドラーでいうところの「勇気づけ」なのだろうと思う。これらの指導法が意欲や自主性を引き出し、行動を一般化させることがつながるのだと思う。

総じて「暴力」が生まれる理由は「自分が結果を短絡的に見たい」ってことがある。

また、ケースにもよるけれど「手段の目的化」ということもあると思う。たとえば「相手にあることをしてほしいという状態の改善」するための暴力から、「相手にあることをしてほしいのにあることをしてもらえないという葛藤状態から来るストレス(怒り)を発散」するための暴力もあるだろう。

後者の暴力はもう主観で自分のためのものでしかない。ある人にあることをしてほしかったのに、もういいやってある人を抹殺してしまうというような考え。支離滅裂な自己の持ち主で生きづらいだろうなと思う。暴力をなくすために、論理の力も育む必要があるのかもしれない。

もし、抹殺した後に、やろうとしていたことがその人と二人でなければできないことだったら、どうするのだろうか。取り返しがつかない。後悔するってだけなのだろうけれど……。

超話が飛躍するが、私は、これが、地球上で全員が生きていていい理由だと考えている。地球上がある人数でなければ、地球上の全員は幸せになれない。だとしたら、誰かによって命が断たれることは合理的ではないだろう、と。

やさしさ>ただしさ>つよさ

やさしさを第一にしてはどうだろうか?と子どもに話すことがある。極端だなって言われると返す言葉がないのだけれど、私は「つよさ」より「ただしさ」。「ただしさ」より「やさしさ」が必要な時代なのではないか、と考えている。

今日、休み時間に使った物を片付けない子を叩いた子がいた。ただ、その子がなぜ片付けないかというと、次々に目移りする特性だからでしかない。そして、注意をしてくれたのだが、その注意が入らないのは、否定の感情が先行していて、その角度の情報は入りにくいからだ。端から見ていると、すべて注意する側のせいで、環境因だと感じる。その関心の結末に暴力があるなら、ホント関与してくれるな、と思った。(私のいうことを聞かないなら、存在として許しません!なんて、もうサイコサスペンスじゃないですか?)

もし、人とかかわる、関心をもつという思いやりを発揮するなら、最後まで発揮しろ、と思う。

結末に暴力がある背景には、「やさしさ」より「ただしさ」。「ただしさ」より「つよさ」という、相手を動かすための価値観があるように感じた。相手を動かすためというならまだマシな言い方で、実際は自分が思う通りの世界を演出するための価値観でしかない。

もし、本当に片付けてほしいのなら、片付ける力を付けてほしいのなら、私たちがやるべきことは、「注意」「怒ること」ではない。「指導」と「励まし」だ。

この辺は、育てられ方で如実に出る。本当にその子を思っている子、たとえば励まされて育てられた子は、周りの子も励まして行動してもらおうとする。それは別に大人みたいに卑しい裏があるのではなくて純粋な関わりとしてそうなのだ。

しかし、いつも否定されて育った子は、自分が年上になったり、出来るようになったり、優位に立ったときに、同じように相手を否定して動かそうとする。

この「やってもらおう」と「やらせよう」という角度・思いの違いだけでも受け手の感じ方は随分違う。

まあ言いたいのは、結局、本を正せば、「暴力」がどこから生まれるかと言えば「大人の間違った価値観による『指導』から」ってことが言いたい。

「ふーん。それで、やさしさだらけにして甘えた子が育ったらどうするの?」という疑問が湧くだろう。私は別に世界が甘ったるくたっていいと思っているのだけど、それはまた別のところで話そう。少しさわりを言えば、私たちは、共同体であること。自分をよりよく成長させるという価値基準。みんなにとってより良い自分(みんなには自分も含む)を選択する力を身につけさせる。といったことに大人が価値をもてていれば、甘えに対処することができるだろうと考える。

まああれこれを置いておいても、とにかく人間ってことを忘れないでほしいと願う。

手伝いがなくてもできるときもあれば、手伝いがほしいときもある。その臨機応変さもなく、「自分のことは自分で」とパターン化されるところが気にくわない。もっといろんなときがあっていいんだ人間は。

「悪」を根絶する気でいるんだろうけど、目の前にいるのはただの人だ。

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