かならず幸せになれるいきもの

幸せな子ども時代を過ごす子どもを増殖させるための哲学。(旧:それでも幸せな人はいるから)

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メタ認知(その1)

ちょっとつらつらといっとこう!!今日の最速の振り返り。

 

ここ2週間、ふたせんさん小学校教師ふたせんの朝3時からの共育現場〜育つ育てる育てられる〜のお陰で様々なつながりを経て、メタ認知に没していた*1

 

ほんとーーーに有り難いこと!!!

おーーー疲れ様ーーー!

 

だけども……ああ……。ちょっと、疲れたね。

 

でもでも!

ナイーブなことばかり言うにもかかわらず、受けとってくださったことがとても嬉しい。

 

それで、じゃあ、

「これから何すんの?」

「どうしたいの?」

「何を実現したいの?」

と言われると迷うけれども……。

 

今の思いつきは、「幸せってなんだっけ」を職員間で一言ずつ話しても面白いなあ、と。

それと、学校教育目標なんかが結びついていて、日々の実践ともつながって、みんなが自分の幸せ観をもとに指導を振り返ったら、学校って明るくなりそう*2

 

同時に、そんなことをしないと隣の善人に気づけない私なのだなあ、とも思うけど。

 

そうなると、大事なのは「信頼すること」だ。

でも、その信頼に値するかが、それこそ、メタ認知の違いかもしれない。

 

たとえば、みんなが思うような幸せ感と、学習指導要領とかの基準と、21世紀を掛け合わせて、子どもを見られたら、ちょっと安心して学校で過ごせそう。大人も子どもも。

 

ところで、今は、明治維新レベルの過渡期らしい。

だから、「何者か?」は、思ったより自分で選んでいい、選ぶしかない、っていう印象を受けた。

それが当たるかどうかは、分かるわけがないのだった。

 

そういえば「根拠は後付け」*3

この間、LSPで教わったことだ。もしそれでもよければ、教師はもうちょっと楽だけど、それでいいってわけにはいかないしなあ……。

そんな、なんでも、科学的根拠を示せますって超人になろうってのもないけれども。どの言動にも教育的価値は説明できると考えるとしても。

 

そうキツキツでギスギスしてくると、親しみやすさっていいなって思う。穏やかさ、平易。

下手すると人って自分が求めて手に入れた分、相手にも求めがちだし。

「それもいいよ」って言える立場でもいたい。

ただ、これは、「自由」との戦いになるのかも知れないけれど、子どもたちがある程度の自由を享受して楽しめるように育てなきゃね。

 

たとえば、プログラミングをしなければならない、英語をしゃべれなければならない。下手すればそこまで不自由は来ていて、これまでの自由どころではない未来かもしれないのだ。

 

そこをなんとか、間に合うように。

 

自分のための学び。

あなたのための学び。

自分たちのための学びを。

 

 

*1:没頭の方が妥当かな、でも、もはや沈んで隠れ込んでいた感もある

*2:もちろん学習指導要領からは、外れない前提で

*3:こじつけってのもある

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