それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

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「自己不在感」について

駅に行く途中でたばこ屋の前で思いっきり止まってメモを取ってしまった「ハピペン」です。好き勝手な形而上学。

 

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「洗脳=認識している様々な枠」からの変化

 この本の冒頭。

超図解「デザイン思考」でゼロから1をつくり出す

超図解「デザイン思考」でゼロから1をつくり出す

 

「開発者の視点」ではなく、「生活者の視点」からの問題解決

(中略)

人間重視・生活重視の志向、それこそが、「デザイン思考」なのです!

 「あ、これだ。」と響いた。「自己不在感」の正体に急激に近づく。

 

私は世の中に「生活者の思い」は求められていない風潮(雰囲気)があると感じている。特に、そもそもの学校ってのが「個人の思い」を封殺するきらいがあると思った。

この社会の性格と自分の「脱・抑圧」「脱・排除」思考が共鳴して、自己不在を感じさせるのだった。

子どもたちには健全に自己を満喫させるために「どこからが自由」で、「どこまでが自由」か示してあげる必要がある。何もかもが不自由で、自分を封殺される世の中なであって、何かをすれば急に怒鳴られるかもしれないリスクのあるのが社会なのではなく、知っていれば十分に楽しめるのが社会だと知らせたい。

自己不在感の歴史

たとえば、私は自分を「DAFLのNさん」に見つけられたという感じがある。

存在としての自分は確かにいたのだけど、他者の言葉で表現される自分がいなかった。

内的な自分しかいないから、社会での「存在感」が認識できなかった。今年の歓送迎会で自己紹介をしたときも、「存在感がない」と自分で言っていた。

訓盲でも少し年上のT先生に「もっと存在感だして」と言われた。そして「自分の幸せも考えなよ」と言われた。この人は、私のことが見えない存在として"見えていた"。つまり、そのときの、私のありのまま、真実の姿が見られたと思えた。

とにかく、これまでは「"今ここ"」にすべてつながる。メモにもやっぱりヒントはある。

私が、ずっと順を追って、追っていたもの。

「恋愛への依存」「家族への執着」これらから抱く「自己不在感」は、すべてつながっている。

自己不在感の背景にあるもの

「表現」だったり、「会話」だったり、「コード(環境)」だったり、これらがこれまでの自分を形づくってきた(すべて言語活動である)。

そうして「作られた枠組み」すなわち「洗脳」に、私たちは自分の生き様を翻弄されている。

  • 自分自身による洗脳
  • 自分の外の何かによる洗脳

大切なことは「何に洗脳されているか俯瞰すること」だ。

そして「どこに脱・洗脳するのか」。

 

「脱・洗脳」のヒント(凝り固まった価値観から解き放たれるための自分の見つめ方)

ここでの「"どこ"」の目的が重要だ。だからといって困り果ててしまう必要もなくて、「リソース・資源」は、すでに自ずと手に入っていて、自分の人生の文脈の中にある。

「経験は自由且つ偶然に自分が生きる根拠を与えている」(これが、「生きてさえいれば人は誰でも必ず幸せになれる」仕組みの背景だ)。

そこから、生まれる「快」「不快」を頼りに、自分がしたい・できる変革を自分が担っていくということが、役に立つとか、社会的な自己実現とか、ライフワークといったことなのだ。

その流れの中で、他者に触れ、「自分の経験・感情」の

  • 客観化
  • 一般化
  • 情報化・コード化

が起こって「より多くの人にとって意味を為す形」に加工されるってことだ。

「生きている時点で意味はあるし、絶えず生まれ続けているし、絶えず更新されている」その都度ヒントは送られている。常にいつでも。それを「受け取る」ことを選ぶかどうかだ。

人生のマニュアル【「受け取る」というgive】

ポイントは「giveできる」という自らに課されている事実を「受け取る」かどうかだ。

giveできるという事実を「受け取る」。

何も具体的に与えられたと実感せずとも、自分がgiveされていることに気づけば、生きるってことはもう少し明るくなる。

そして、その「意味」に気付けるかどうかは、ある意味「運」だし、この世の同じ仕組みの中を生きている社会とは違った宇宙規模の存在の価値とつながることで、付与・負荷・付加される価値観がある。

そこから、自分の内側が変容するし、外側的な自分も見えてくる。

自分が「集団的無意識化する」と言ってもいいかもしれない。

自分だけの自分でなくなるような、自分が他者にとっての、社会にとっての、この世界にとっての媒介となるような。

一つの有用なデータとして存在するような。

webの一部になるような。

私にアクセスして誰かが変容するような。

意味のある価値のある情報になるような。

そういうモデルとなる、一つのパターンを生きることが、一人ひとりに必ず付与されているこの世界のルールで、最低限度の人生のマニュアルなのかもしれない。

私の人生は社会が求めなくても、地球としては「あり」だというような。

そして、その「表明」のようなものを、他者にも「あり」にしてもらうことで「生き辛さの旅」もとい「生きやすさはへの旅」は完結する。Nさんが私の役割を新たに提案してくれるように。

人は無限の宇宙的な要素、一人ひとりの銀河を誰も彼もが毎日当たり前に携えて生きているのだ(そこから生まれる「集団的無意識」のような「ない人格・法人」のようなものもあって、それにコミットするパターンもある。その「ないもの」も「ある誰か」につながっている)。


「自分と他者を行き交う経験」をつくること

誰かとつながって自分が「有意義化」されるためには「自分と自分を行き交う経験」「多様な他者に関わる経験」その経験を言葉化して理解するための言語能力が超重要。

その「メタ」が「自分で自分を生かすことにたながる」。

自分が「いなさ」と感じているものって、実際は他者にとっての「いなさ」でしかなく、本当はいつでもその人は「"今、ここ"」にいる。

たとえば、それが、社会にとって「いる」になると仕事になる。

まとめると、自己不在感の解決のヒントは「自分を見つけてもらうこと」にある。

それは「他者の中の"自分"を見つける」ということだ。

 

では、どうして見つけられるか、どうしてその情報が生まれるかは、「自分」を媒介として飛び交う素粒子?ニュートリノのようなものだと考える。

 

「自分」と「6次元」(一気に形而上学に……。)

見えなくなった自分は、他者との間にある見えない時空間に追いやられていて、他者の自分観や自分に関する思考を媒介として、伝播して3次元化される。

その伝播は素粒子やニュートリノ、ダークマター的な見えないところで行き交っていて、人(他者や自分)に還元される。

自分って見つけるというよりは、「見つけられる」(受身)でもあるのかもしれない。

そして、それと「自分の思う自分との一致」が「納得できる自分の在り方」で、その「合う自分」かつ「客観的な自分」、「自分に合った自分を見つけてくれる人」、「見つけてくれるかもしれない人」は重要で、メンターと呼ばれ得る人なのだ。

この「どんな自分をよしとするか」、その都度、タイミング、バイオリズム、文脈、感情なんかで変わるが、ヒントの内側と外側のバランスは、その人それぞれで、心地いいものを選択できるといい。

「内と外のバランス」という部分があるのかもしれないし、「外の質による」というところもあるかもしれない。

 

こうして、言いたいことは、あなたは間違いなく「"そこにいる"」ということなのだ。

それを証明するためには、他者が必要だし、自分をクリティカルに見る必要がある。

自分の偏った価値観やこれまでのサンプリングによる洗脳から自らを解き放ち、「在り方」を言語化できたとき、そして、それが他者からも納得され得るとき、自分は存在できる。

 

そういう仮説を思いついた土曜だった。

 

ときに自分は自分が見えなくなる。自己不在化に陥る。

しかし、どうあがいたって、それは目に見えないだけで、自分が存在しなくなることなんてない。

その見えなくなった自分を見出すには、他者というスポットが必要で、それが洗脳を解くスイッチになるということだ。今の自分はこれまでの慣れた型に則っているだけである。「本当の自分は……」そう思って見出した先に、今もいつでもあなたは正しい形をとどめたままきちんと相変わらず存在している。

それにタッチできたとき、生きている意味・生きる意味に触れた感じがするだろう。

そうすれば、自分の生きたかった自分で、今を生きられる。

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