かならず幸せになれるいきもの

幸せな子ども時代を過ごす子どもを増殖させるための哲学。(旧:それでも幸せな人はいるから)

スポンサードリンク

手順は可視化して!「聴く力」を育てるからって見えない化されすぎじゃない?

気づいたら一日置きに、五目あんかけ焼きそばを食べていた「ハピペン」です。なんでか、つい頼んでしまっていた。

 

さて、今日は大きく二つ。

  1. 「手順を可視化して!」
  2. 「聴く力」ってそんなあたり構わずねらっていくものなの?

です。

「手順を可視化して!」

手順があるものは(図工、理科、家庭科、生活科など)「何をやればいいのか」を簡単でいいので板書してほしいです。
①考える
②書く(場所、もの、何、誰)

とかだけでもいいので、負担のない範囲でいいので、書いてほしい。
なぜかというと、たとえば、説明の最中にそれぞれが思ったことを言ってしまっていてうるさい。まあどうしても、子どもらしさとしてこういうときってあると思います。イメージを発散したり、全体と共有したりってことで(だったら、ペアとか前後4人で発散してーって思いますが)。
ただ、そのうるささを紛らわすために、そのときにすべき「聴く・大声でなんか言う」から離脱している子が25人中5人くらいいました。
イスの上にしゃがむ。ふでばこを開け閉めする。ふでばこを飛行機のように空中で飛ばす。
また、カーストの低い子だけうるさいって注意される。そして、その声もまた大きい。それに合わせて大きくなる先生の声。
その中で耳を手で叩いて感覚を楽しんでいる支援の子。
その後に、「いいですか?」「はい!」「質問コーナー」5、6個。「では、どうぞ」「先生、何を書けばいいんですか?」「さっき言いましたよね、ちゃんと聞いてましたか?お返事しましたよね」ってなると、えぐいなあ、と。

「聴く力」ってそんなあたり構わずねらっていくものなの?

それでもなぜ書かないか?に、「聴く力」を鍛えているというのがあるかもしれません。
確かに、数人優秀なエージェントがいるのかもいしれない。聴けている子がいるのだから、聴けていない子が悪い、と。

ただ、「聴く力」に発達段階はないのか?
環境は適切か?
そっか!聴きにくい中で聴き取る力を養っている?
そうだとして、本当にそういう段階?って感じです。
もし、情報が多いな、聴ききれない子もいるな、と感じるなら、周りに聞いていいという風土をつくってほしい。

それで、うるさくなるのが嫌?だとしたら、小さい声で話す練習をさせて、それからありにしてほしい。

ホントいろいろ譲って好きに説明していいので、その間子どもたちもうるさくていいので、その説明が終わったあとでもいいので、
ワーキングメモリーが弱い子、声が二つ以上あると声を選んで聞けない子のために、手順を板書してください(できれば、その瞬間第三者が入って来ても何をやっているのか分かるようにしてほしい……)。

私は、子どもが何をするか分からないのは「聴く力」がないからで済ませてはいけないように思います。

そもそも下手をすれば「聴けるか、聴けないか」の判断を教師がメタできていない可能性もある。

聴ける環境だったか。
発達段階に合っている量か。
聴いて出来なければならない内容か。
目的は「聴いてやる」なのか。を考えてほしい。

「聴く力」は習慣的なものではあるだろうけれども、あたり構わず「聴く力」をつけるのではなくて、場合によってねらって。あと、アセスメントしつつ、聴いてできる経験を積ませて、子どもに挑戦す気持ちや意欲をもたせて練習させていってほしい。

それが、ややこしかったら、いいから「やることの手順を書いてくれ」って思う。

スポンサードリンク