かならず幸せになれるいきもの

幸せな子ども時代を過ごす子どもを増殖させるための哲学。(旧:それでも幸せな人はいるから)

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「自分を社会で自由に楽しむための学び」へ(認められたいという不自由と社会の相性の良さ)

昨日は久しぶりに日本酒を飲んだ「ハピペン」です。母と話しながら。世界の閉塞化って恐ろしいなって思う。人生の中で浦島太郎が起こる時代なのかもしれない。

外に目を向けたら、みんなアクティブラーナーだったみたいな。

一つ、自由に対する感性の違いに目を向けてみる。

この先は、自分と社会や世界の位置づけが必要になってくる時代。

これまで、社会をメインにして謳歌してもいいし、仕事とプライベートを分けてプライベートで自由を謳歌しても良かった。

いろいろなタイプがあっていいけれど、本当の楽しさや自由はどこにあるのか、ということ。反対に不自由を考えることで、答えに近づいてみよう。

アーティストのインタビュー

昨日の夜、LiSAのインタビューを見て、大好きな田淵節が入ってきて刺さった。
アーティストは(も)「認められないかもしれない」という不安を抱えがち……なのかもしれない。
たとえ認められたとしても、今度は「でも、『ずっと』は認められないかもしれない」という不安が付きまとう。

そしてパレードは続く
──アルバム曲に話を戻すと、ラストを飾る田淵智也UNISON SQUARE GARDEN)さん作詞・作曲、東京スカパラダイスオーケストラ編曲の「そしてパレードは続く」が、また心憎い。
田淵先輩とスカパラ先輩という人生のダブル先輩が、「遊びつくせ」とおっしゃっております(笑)。
──ははは(笑)。歌詞にある「今を楽しもう」とか「きっとこの先もまだワクワクできるから」って、まんまLiSAさんの言葉ですよね。でも、それを書いてるのは田淵さん。
もう先輩にはね、LiSAが乗り移ってるから。いや、逆かもしれない。先輩がLiSAに乗り移ってるのかも。
(中略)
──ちょうどアリーナツアーの最中の6月24日に誕生日を迎えられますし、そのアリーナツアーという山を越えたら、それこそ「YAEVA」で好きなことをやる、自由な30代の人になれますように。
いいですね、自由な30代の人。それ、目指します。

natalie.mu

この「楽しさ」と「自由さ」って、結局、人間を人間にするような気がして、心が熱くなった。
一方で「認められたい人」ってのが、ごろごろいる。
こうしたメジャーなアーティストでも「このままでいいのか」とか「成長しなきゃ」って不安を抱きながら生きている。

LiSAは「武道館」に行くって夢を目指していたため、実際に武道館で歌えたことで、そこで一旦着地してしまったという感覚があった様子。

そうして、夢を叶えたことによって、自分を「認められた」後、さらに認めてもらえるかは、みんな次第で、どんな在りようでいようか迷いもするのだけれど、でもその迷いから生まれる不安を恐れないで「自分なりの答え」を出して、「今を認めて進めることを選んだとき」、そこに「自由に楽しく」があるように思う。

自由が生まれるには

子どもたちに話を移すと、子どもたちもまた(職員室の人たちも)「認められたい」子どもたちが多い。

たとえば、認められたいから、人の目を気にして行動しなければならない。そうしなければ、自分が何をしてしまうか分からいし、コントロールもできないってことでもある。

「本能」や「やりたいこと」、「ありのまま」といったものに、自分の主導権を奪われてしまう。これは、確かカントがいう不自由だったはず。そして、理性で自分をコントロールできることこそ自由だと。

法律を知っていれば、その範囲内であれば自由であることが分かるように、自由を本当に謳歌するためには「知ること」や「知識」が必要だ。

楽しさが生まれるには

じゃあ、楽しさはどこから生まれるか。
それは「言葉」から生まれると考える。漠然と言葉にならない感情の楽しさ=「快」も存在すると思うが、人は言葉によって感情が左右されるように、言葉を扱えれば楽しさを獲得できる可能性が増えるだろう。

昨日、パン屋さんでサラダを食べようとしたら、ワカメサラダ以外売り切れでげんなりした。でも、そこから言語活動がはじまる。「まあ、たまには海のミネラルもいいよね!」とか。

それで「不快」は「快」の方向に書き換えられた。こういう小さい出来事を抜き出しても楽しさに言語は不可欠だろうと思う。そもそもの、この感情を俯瞰するために言語が必要で、言葉がなければ自分の感情を表現しにくくなる。

言語は、幸せ・快楽・喜び・嬉しさを表すにも必要だろうし、それを感じ取るにも言語が必要なのだ。

「言語」が「楽しさ」につながると考えると、「学び」の価値や意味は面白い方にいく。

すべての学びは「自由に楽しむ」ためへ

学びがなんのためにあるかといえば、「自由に楽しむ」ためにあるってことだ。

知るほど、ツールは増える。それを好き放題使って、自分をやっていいってことだ。

自分がやっていいこと。つまり、やれることが増えれば、この世界はその分だけ楽しくなるわけだ。

ヘクタールを主体的に学ばせるにはどうするかって話がこの間校内で出たけど、めっちゃ社会で生かしてる人に話を聞けばいいだけの話かもしれない。
おそらく、ヘクタールを「自由に楽しんでいる人」はいるのかもしれない。

しかし、社会が望んでいるのは

ただ、これまた面白いのは、社会は不自由を享受できる人を望んでいるかもしれないってことだ。

時代は「自由」へシフトしていると思うけれど、まだ「不自由な認められたさ」で生きている人間が量産されているように思う。

社会が変わるか、教育が変わるか。

どっちでもいいけど、私は教育の側にいるので、子どもたちに働き掛けていこうと思う。

その秘策は、「認める」ってことだ。子どもたちは、認められたくて頑張っている。

じゃあ、気軽に認めちゃったらどうなるか。

子どもがぎゃんぎゃん言ってて。「いいよ、それで、それでも好きだよ」って言うと治まることがある。

その認められた先には、本当に生きたい自分を生きるしかなくなる

その本当に生きたい自分っていうのは、本当に美しくて、人間はポリス的な動物だとか、性善説にまる投げな感じなのだけど、子どもは勝手に人とかかわる方、成長する方を選べるようになっていく。

「認める」ことから「自由」がはじまり「社会を楽しめるようになる」としたら、これは結構理想的な教育の形だなって思う。

「まあ、ただのカントじゃん」ってつっこまれそうな気もする。

そうして、学習指導要領は「何を知っているか」「知っていることで何ができるか」「その学びを自分や社会にどう生かすか」のステージへ向かう。そして、もうスターティングゲートに入った。

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