それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

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「小さき者」と「大きい者」

なんか雨多くない?!って「ハピペン」です。次は引っ越し先を探すというタスクがある。排水の陣が大好きなので(いや、めっちゃ嫌だよホントは)、もう部屋は解約の通知をしてあるぜ!

 

今日はこの本の話。

思考・論理・分析―「正しく考え、正しく分かること」の理論と実践

思考・論理・分析―「正しく考え、正しく分かること」の理論と実践

 

 

「小さき者」

この本の「おわりに」に書いてあることに感動する。

アリストテレスが論理学の基礎を築いてからデカルトが論理的思考の方法論として演繹法を完成させるまでに、何と約2000年もの歳月を要している。このことが何を意味しているかというと、人間が正しくものごとを分かるための技術をいかに欲しがってきたかということと、そしてそれがいかに難しいかということである。 

P237より

純粋にすごい。アリストテレスもデカルトもすごすぎる。大きすぎる!!

 

たとえば、単純に自分と比較すると、自分はちっぽけすぎて、どうしようもないことばかり考えて何やってんだろって気持ちになる。

 

自分は「小さき者」だと。

 

そして、ふとこの感覚って子どもたちも抱いていないだろうか?と考えた。

 

子どもたちもいろいろ自分と比較して、自分が「優れているか・劣っているか」考えてはいないだろうか?

 

今どきの高校生?

今どきの高校生は、文化祭で何をやるか決める際に、意見は紙に書いて箱に入れて集める、という話が書かれていた。

その理由が面白くて

何かを決めるとき挙手制だと意見が出ない
(中略)
だって、反対されたり論破されたりした嫌じゃないですか
P10

次期学習指導要領で対話を大切にしたいという中、今どきの高校生はこういう気持ちなのである。

今、育てている小学生たちに対話の価値を感じさせられたら、高校でも挙手して意見を言って話し合いができるようになるだろうか?


私は「無理だろう」と思う。

なぜなら、それは、そこに潜在している価値観が違うためである。

 

高校生たちは「よりよいものを創り出したい」というよりは、

「攻撃されたくない」
「否定されたと感じたくない」

のである。

そうした「価値観から来る癖」はどこでつくのか。

この「価値観から来る癖」が問題だろうなと思う。

 

「価値観から来る癖」の正体

私は、価値観は、大人の誉めや叱りが強く関係していると思う(あといつも言われていること、やっていることの習慣)。

たとえば

「忘れ物をすること」と
「他人を傷つけること」

が同じような強さで叱られれば、それをしてはいけない価値の尺度はは同じくらいになるだろう。

 

なので、私は「価値観から来る癖」の正体は、
「できる・できない」
「よい・悪い」
と言った、二元論から来ると思う。

できれば、正解や結論を手に入れたことではなく、対話や出来事をさらにメタして、そこから多様な「見方・考え方」、良い方法と悪い方法両方が手に入る良さを伝えていけるといいのかもしれない(「見方・考え方」は次期学習指導要領でも言われている)。
または、議論ができたこと自体を称賛するなど。

 

簡単に言うと

「正解や決定する意見を出せたことが素晴らしいのではない」

という単純なことである。

 

ある基準以上を出すことに価値を置いている人は、ある基準以下は無意味だと感じている可能性がある。

 

負ける人のおかげで、勝てるんだよな。

もちろん「自分こそ良い!」っていう感覚は誰もがもつ可能性があるもので、その感覚を全否定したいわけではない。

当然、私も、全く抱かず常に謙虚で仏として生きられているわけではない。

 f:id:penguin-kn:20170815111712j:image

 (タイ旅行より)

しかし、たとえば、ある答えを「よいもの」として出せるということは、それを出せない人がいるからこそ、自分に価値が生れてくるわけで、自分の価値というのは他者ありきなのだと思えたとしたら。ちょっと利己的だが(笑)誰しもの必要性に気づけると思うのだ。

 

それは、この世の仕組みだと思っていて、適材適所。他の人は他のシーンで活躍する場があるってことに過ぎない(そして、その活躍につなげるのが教師の仕事だと思っている)。

 

そうなりそうなときにこそ思い出す詩がある。

負ける人のおかげで、勝てるんだよな。

みつを

やっぱり「あいだみつを」なのである。

前に、学童でドッチボール大会で全敗した子どもたちにこれを伝えたことがあって、そしたら賢い子が「言いたいことはすごい分かるけど、それより俺らもっと悔しいよ」って言われたのはいい思い出。

「そう、だから次があるってことだ。その負けのおかげで次勝てばいい。」とヒヤヒヤしながら返した。

ちなみに次の年は優勝。指導は全くしていません。
一緒にドッチボールをするっていうのはあったけれども、彼らは彼らの意思で優勝したくて、嫌がる女の子も低学年の子も説明して説得して交渉して巻き込んでいった。

 

さて、この二元論で人を見る背景にはもう一つ理由があって、その正体は「自尊感情が低い」ってことだ。

 

大人も自尊感情が低い、だから人間を二元論で見てしまう。あとは、それ以外の見方(価値観)を知らないってのもあるだろう(私がアリストテレスからデカルトまでの間に2000年あるっていう見方をこの本に出会うまではしなかったように)。

 

さあ「大人も自尊感情を上げましょう」って話は、またどこかで考えたい。

 

「大きい者」

上の話の中に出てきたように「どの人間にも価値はある」という立場に立てたとき、アリストテレスもデカルトも、自分と同じ地球に生まれた一人っちゃ一人(次元が違うとかあるのかもしれないけど)っていう風に思えるところがある。

アリストテレスやデカルトが生れた歴史の先に存在している自分が誇らしかったり、感謝したい気もちになってくるっていうことだ。

考え方によっては、それを残された、託された自分という存在の不思議さに気づく。

そして、世界はまだまだ知らないことだらけで、しかし、知るには限りがある。ただ、自分は、たくさん無限に残された充実した世界の中にいるということにも気づく。そこから選んでいいってことだ。選び放題。これまで生きたたくさんの人が残してくれた中に、今、確かに自分は生きている、ということだ。

自分を卑下する必要はないし、小さき者だなんて思うこともない。

もちろん到底アリストテレスとデカルトと同等なんておこがましいことも思っていない。

しかし、アリストテレスもデカルトももっていなくて、今の自分がもっているものが一つある。

 

それは、

今、自分は、生きている!

ってことだ。

 

生きているということ以上に強力でエネルギッシュで、祝福されていることはないのだ。

 

かと、言って、「ヘイ!ヘイ!オレは生きてるぜ!」ってガンガンいこうって話でもない。誰かの領域に土足で入って裁きまくるのはやめよう!

 

つまるところは、「中くらいの者」になろうって話かもしれない。

定義を考えるのは面倒くさいので、みんなそれぞれに考えて自分を生きてくれ!!

 

そんな「生きる」ってことを考えた終戦記念の日ってことでどうだろうか。

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