それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

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相手にOKを出せて、はじめて自分にもOKを出せる(下)

前回

inclusive.hatenablog.jp

 の続き(1年以上前に思考したことを書くっていうね……自分の成長具合が心配だよ。化石みたいな脳って感じがする……トホホ)。

 

「相手にOKを出せて、はじめて自分にもOKを出せる」の考えの参考にした本を紹介します。あと+αめっちゃ書いてしまった。

1.自己カウンセリングとアサーションのすすめ 平木典子 著

 この本は、おすすめです。

結局、自分の言いたいことが網羅的に書かれています。

  • 自己理解
  • 書き出す
  • クセに気づく
  • 感情・行動・思考を見る
  • 言動を振り返る
  • 理想の自分と現実の自分
  • 自己表現
  • 他者理解
  • 自己受容と他者受容

あらまーって感じ。

今回、書きたいのは、相手と自分の違いについての項目について。

私たちの相互理解がむずかしいのは、人間がそれぞれの枠組みや特徴を持って生まれてきていて、みんな違うからですが、だからこそ、私たちは自己表現をする必要があるのです。

自己表現をすれば、相互の違いはもとより、似ているところ、同じところなども明確になります。他者との相違点や類似点は、比較の材料になり、自己理解を促進してくれます

P148

他者を自分の一部・環境と捉えて、関わることで、より自分を知ることができる。

しかし、そのためには、自分の中で自分に語り掛ける言葉が育っている必要があります。

 

たとえば、

「私は、そうは思わないな」

「どうしてだろう?」

 

「そうそう!私もそう思う!」

「なんでだろう?」

 

と、言った風に、ただ感情で終わらせず、「Why」を使って思考を巡らす必要があります。

すると、自分がどんな価値観を持っているのかが明らかになってきます。

 

この比較を行わずに、一人で価値観を丹念に醸成すると、だいぶ凝り固まった自分が出来上がります(はいはい、すみませんね。)

丹念に醸成してしまった分、サンクコストに縛られ、自分本位な自分を誇示するようになります(そうです。今は気をつけています)。

そうすると、自分の価値観は間違っていないという戦いが起こり始めます(私は勝手に開戦の準備をはじめていた。そして、それは自信のなさからくるもの)。

そして、否定されるわけにはいかないので、自分の価値観がいかに柔軟に満遍なく網羅的に対応できるかに執着するようになります。

 

これは、『勉強の哲学 来たるべきバカのために』で言っていた、アイロニーの無限につながると思います。

アイロニカルな話の展開とは、無限に遠くにある究極の根拠に向かって、話を深めては壊し、深めては壊しを繰り返すことである。

No815 kindle

そして、この無限の追究によって、周囲とは世界がかけ離れていく。追究し続けて、周囲にも要求し続けて辺りを見渡すと、気づいたときには一人になっている。

人は、一人では自分を認識できない。自分しかいないからである。

私は、こういう感覚のときに、宇宙に放り出されたようなイメージをもった(この辺でバズライトイヤーが「無限の彼方へー!」って言いだした。いや、うん。お前好きだよ)。

こう思ったのには、福島智さんの話を聞いた影響もあるかもしれない。

視覚も聴覚もなくなったとき、宇宙に放り出されたように孤独を感じたという話。

おこがましいが、この感覚と私の抱いた感覚の似ているところは「そこでその情報を処理できる人が自分しかいないということ」そして「その情報を用いて誰ともかかわれない」ということだ。

私は、無限を終わらせる必要があった。そのアンテナを張って出会えたのがDAFLでもある(そして、素晴らしいのは、DAFLは武装解除をさせるのがうまいことだ。そのおかげで、他者受容が進む。)

 

もう一つ、いい文があった。

違いが認められないことは、自分らしさがつかめなくなることでもあり、それではどんな自分とつき合えばよいかも分からないでしょう。

P152

なぜ自分らしさがつかめなくなるかと言えば、それは自分らしさという芯に、柔軟に満遍なく網羅的になるための付随物がめちゃくちゃにくっついてしまうためだ。

するとどんどん自分の軸(濃度)は薄まっていく。

その柔軟に満遍なく網羅的にくっついたものが売り物になったなら、まだ取返しがつくのだけれど。(つまり、軸がホタテの貝殻で、カキがくっついて養殖されていたらよかったのだが。私はホタテほど有用ではないため何も養殖できず……。たとえば、私がきっと回転寿司で回ってもホタテが取られていくのを横目に、私は決して誰にも取られないだろう。「えっ、なぜ人が正座して回転寿司で回ってるの?!」と怖がられて終わりなのである。)

自己カウンセリングとアサーションのすすめ

自己カウンセリングとアサーションのすすめ

 

 

2.人間失格?「罪」を犯した少年と社会をつなぐ 土井隆義 著

 「キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像 (岩波ブックレット)」の土井隆義氏の本です。

 

自分の異質さを認め受け入れるためにも、他者を排除しないことの大切さが書かれています。

 

P261辺りに、秋葉原の事件について書かれています。

(秋葉原事件の彼は)高校の卒業後は、自分の望むように進学できませんでした。また、期待した定職にもつけませんでした。「殺すのは誰でもよかった」という彼の供述からは、人生に躓いてしまった彼の絶望感の強さが透けて見えてくるようです。

 

おそらく彼にとって、いまの自分の姿は、かつて絵に描いたような優等生だった頃には予想だにしなかった不本意なもので、とうてい自分でも受け入れがたいモンスターのようなものだったのではないでしょうか

 

そんな異質な自分の姿に、とても耐えきれなかったのではないでしょうか

 これは、誰にでもしょっちゅうあることだと思う。

 

小学生だって、日常の中で何度も思い知らせれていると思う。

何度言われたって先生の言うような自分になれない。そう打ちひしがれて、自分に絶望している子。

絶望し慣れていて自分を否定することが当たり前になっている子っているんじゃないかって思う。

私は「自分の心は焼け野原みたいな感じ」と自尊感情が低い人の例を出してひどく共感している子どもに出会ったことがある。

私の中では、灰色で火がチリチリ所々に残っている様子が浮かんだ。

これは、彼だけの問題ではありません。

 

長い人生の中で躓くことは、どこの誰にでも起こりうるものです。

 

皆さんの身にだって、その大きさは違うかもしれませんが、いずれいつかは起きることです。

 

その意味で、私たちにとって危険な他者は、多かれ少なかれ誰かの中にも潜んでいます。 

 

「誰の中にも潜んでいる」 にもかかわらず、誰かを否定し、自分に縛りをどんどん作っていくのが作法となっているような世の中だと思う。

 

否定した分、自分はそうであってはならないという縛りが増える。

身動きができなくなった自分は完璧でいるしかなくなる(少なくとも私はそうして否定しない超人になって、いろいろな人をその眼で裁いてきてしまった)。

 

そして、その心構えは、自分が自分の定義する悪にならないために、その都度新ルールを追加して、さらに人を裁く。

 

その先にあるのは、勝利だった。

ただ、大切なのは勝利の定義だ。

 

「やっつけてどうすんだ」と自分に呆れた。

 

「勝利=子どもの成長」

でなければならない。

 

「子どもの成長」を思うなら、相手には変容を促さなければならない。

たとえが悪いだろうけど、裁判所で人は更生しないし、そもそも日常は裁判所ではない(かつ、自分は警官でなければ、裁判官でもない)。

 

そして、そのうち自分は気を付けのままもう動けないんじゃないかって思うくらいにルールが大量発生していく。

 

最後に残ったカードは「気を付け可」のみだ。

 

それでも、そのうち「気を付け」に悪を感じる対象に出会ったとき、自分は最後の新ルールを追加するだろう(裁き慣れてしまっているためだ)。

 

「ただ気を付けをしていてはいけない」

 

そのとき、自分は見事に木っ端みじんに消滅する。

 

その消滅した自分を誇示するために、一線を越える。

 

「私を、誰だと思っている!!」と……。

 

私たちは、自らの内部に異質な他者を、モンスターのような自分を抱え込んでいるんです。

いくら安全圏の内部に閉じこもって、危険な侵入者に対するセキュリティの壁を高く積み上げようとも、この内なるモンスターからの逃げ道はどこにもありません。 

 何処まで行っても、自分からは逃れられない。散々誰かを否定して排除して世界をきれいにしていったとしても、どうしても、不満が拭えない。

 

そう「あいだみつを」が

あなたの心がきれいだから

なんでもきれいに見えるんだなあ 

 というように。

 

諸悪の根源は己だったのだ。

何かを悪と見なす自分の心が悪だったのだ。

 

だとしたら、不気味で危険な他者を社会の外部へと追いやるのではなく、むしろその他者と折りあいをつけつつ日常生活を送っていく術が、いまの私たちには求められているはずです。

それが、モンスターのような「不気味な自分」と出会ってしまったときに、その受け入れがたい自分を受け入れていくための、人生の知恵につながっていくと思うのです。 

 つまり、私たちは、そもそもの問題を取り除き、抹消し、消滅させようとしすぎなのではないか、と考える。

 

問題を消すことを目的とすると、最終的には排除するしかない。

 

 

誰かを責めるしかない。

 

 

しかし、ここで必要とされる力は、問題を解決する力だ(つ、月並みだが)。

 

だから、私たちは「問題そのものはいくらでも起こっていい」と構えていていい。

私は、この構えに「子どもも安心を得る」と思っている。

 「いいんだ、大人が必ず助けてやるから」って。

 

実際、大人が寄ってたかりさえすれば、子どもたちに起こる問題で解決できないことなんて何一つない。

解決できなかったことは、完全に連携・協働ミスだ。ヒューマンエラー。

全力で向き合ってそれでも解決できないとしたら、それは大きな社会問題で、早急に解決に取り組む必要がある。

 

話を戻すが「問題は起こっていい前提」。

この覚悟が重要だと思う。

 

ゲームが流行ったせいか、ノーミスクリアが称賛されすぎなのだ。

現実は、ミスを体験してこその、パーフェクトだ。

たとえば、マリオでもミスを知らないということは、そのゲームのすべてを楽しめていないってことにならないだろうか。

あの「ティリッティティリッティティリンリリン」を聞けずにゲームのエンディングを迎えているってことだ。

これはめちゃくちゃ勿体無い。

ゲームのすべてを楽しむためには、ミスも必要なように、本当に楽しむといったときミスは前提として必要になる。

 

「さあ!どう思う子どもたち!!」

「そして、大人たち!」

 

私は「ミスや失敗や問題に寛容になったらいいじゃないか!」って思う。

 

私たちが育てなければならないことは、断じてミスをしない力ではない。

 

「立ち上がる力」だ。

 

それについてな、知識として知っていることも重要かもしれない。

私は「レジリエンス」が大事だと思っている。

 

これは使える本。

「人は立ち直るときに必ず成長できる」

「誰でも立ち直る力を持っている」といったことが書かれている。

こういったことが、先生の精神論ではなくて、字ズラで書かれていることで、支援の子たちは特に生きることへの肯定感や勇気を得ることができると考えている。

 

これも、まだ使いきれていないけれど、学ばせてもらった本。 

いじめない力、いじめられない力 60の“脱いじめ

いじめない力、いじめられない力 60の“脱いじめ"トレーニング付

 

 

まとめ。

 

そう。アイツを遠ざけたのは、まるで、自分の嫌なところ見ているようだったからなのだ。

 

オレは克服したのに、まったくアイツってやつは、どうして、オレができたことができていないんだ!と。

 

ただ、そんな「あなたを私だ」と思えたとき。

あの日の自分を許すことができる。

そして「自己受容」につながる。

あなたの人生は正しかった。私の人生は正しかった。今、ここにいていい。生きていていいという感覚。

生きる喜び。

 

私は、子どもたちに未来を楽しみ切るための勇気を与えたい。

 

最後に、今日思い付きで書いてみた自尊感情についての図解。

これをブラッシュアップしていきたいなあ。

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(仮)すぎて恥ずかしいが記念に。

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