それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

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第5回共創型対話学習研究所研修会(その1:異に出会うこと)

高速バスに「10D」って書いてあったから、「D10」乗り場に行ったら、「10D」は座席で、乗り場は「A2」だった「ハピペン」です。

一人でバスターミナルとか、空港とか、ホント無理!!

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今回の研修会のテーマは「教育実践における『感性』とは何か」。

 

正直考えたことのないことだった。

 

多田先生は、最初に、共感」と「自立を大切しにしてほしいと話された。

多様性な価値観に寄り添うと共に、一人の人間としてその場にいること(正確に覚えていないですが、このようなことをおっしゃった)。対話をする中で、深く感じ、深く考えることを体験してほしい。そして、今自分が抱えているこについての考えの手がかりを手に入れてもらえたら嬉しい。と(いうようなことを)言っていた。

 

ここで、「深く感じ、深く考える」ことっていうのは、もしかすると主体的にしか体験できないのかもしれないと思った。深さの尺度は、実は人それぞれ異なる。

 

今日、はじめて知ったこと、今後も考えていきたいことは、恐らくいくつもある。これは、ジワジワくる系の研修だった。

情報量も多く、掘れば掘るほど、宝が出てくる気がする。

 

その中でも、今のところ掘れた3つだけ紹介する。

 

1.異に出会うこと

「考え」や「思い」を響き合わせながら、手掛かりを見つけること。

懇親会の挨拶で多田先生は、ノーベル化学賞をとった野依良治先生は、ノーベル賞をとるために大切なことの一つに「異に出会うこと」を挙げていると話した。

明治維新のときも、多様な文化が取り入れられた「多様な集団」だったからこそ、うまくいったと話した。

多様性が社会に大きな変化を及ぼし、導くような考えが生まれてくる(というようなこと)をおっしゃっていた。

ノーベル化学賞受賞・野依良治先生「科学技術は何処へ行くのか」 | 人と世界の幸せに奉仕するコーチング

 

この「異質を認められるかどうか」は、結局「自尊感情」と関連するところがあると思っていて、今回の研修会は、自分の考えときっと結び付けられると思えた。

 

そして、この今までにはなかった「考え方・見方」(=捉え方)ができることこそ、「多様性の価値」だ。

 

たとえば、40人の児童がクラスにいるとして、そこにある最大の価値は「40通りの人間を知ることができる」ということである。その種類に優劣はない。トレーディングカードをコンプリートするときに、どの1枚が欠けてしまってもコンプリートにならないように、どの1枚も同じ重要度だ。

 

ある人間については知る価値があるが、ある人間については知る価値がない」というように、人間を評価する目をもつこと自体の誤りに気付いていかなければならないと思う。

そして、その人間を評価する目こそ、自分も評価されているという錯覚につながり「自尊感情の低下」につながるのではないかと考える。

 

自分にとってそう見える世界の在りようは、そのまま自分が世界をそう見ているに過ぎないのである。*1

 

2.「アイデンティティ」と「コミュニケーション」

ラテン語の先生がいて、語源を教えてくれる場面があった。

アイデンティティ

アイデンは、もともとラテン語で「イーデン」というらしい。

意味に「それにもかかわらずその子はその子である」といったものだそう。

その子は、どうしたって、その子として成長したいのである。

どう働きかけようが、その子をその子でないものに育てることはできない。

私たちも同じで、「在り方」の仮固定が、この複雑化情報過多化している社会では生きていく上では、環境に振り回されて自分でない人生を生きてしまわないために必要だと考える。

コミュニケーション

「コ」は、組み合わせ、「ウニ」は、一つという意味だそう。

一方通行では、コミュニケーションではないということを深く理解できたように思う。

一つと一つ、一人と一人が組み合わさっていなければそもそもコミュニケーションではないということだ。

本当の意味で「コミュニケーション」をできるようにしたい。

目の前の人ときちんと組み合わさっている感じがするか、メタして人と関われたらいいなと思う(高い理想だなあ)。

 

3.「How to」と「効果」と「To Be」

どの年代の先生でも、迷い(モヤモヤ)を抱いていることを、実践発表などから感じた。

ど偉い先生たちにしても、

  • 私は〇〇と考えている
  • 〇〇ではこう示されている
  • 実態として〇〇がある

といった表現をされる(当たり前か)。

 

アルティメットな教育法はない。

完璧な教育はない。

 

組み合わさること。そこでの最適解や納得解。手探りでも進む勇気。支え合って少しでも目の前の教育を目の前の子どもにとって確かなものにすること。

 

これらは、すべて「在り方」のためにある。と強く感じた。

今、そこにいる自分が、何を感じて(刺激として受け取って)、どんな考えを持ち、どんな行動を起こすのか。そして、それは、真に人間として相応しい行為なのか。

「自分はどんな人間であろうとするのか。これを問える人間を創り出そうとすることが教育ではないのか」ということを考えさせられた。

 

だからこそ「教師の人間としての在り方」がぶれてはいけない。姿としてぶれることはあるかもしれない。何も見えなくなり子どもに尋ねることもあるだろう。

だが、それでいい。

その子どもに尋ねる姿勢こそが在り方なのだ。考え方や思いの軸は、簡単にはぶらさない

 

多田先生は

いかなる境遇にあろうとも精神の自由を失うことなく生きる

「哲学者の誕生」こそが教育の意味・価値だと言っていた。

*1:「原因」と「結果」の法則』に近い考え。

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