かならず幸せになれるいきもの

幸せな子ども時代を過ごす子どもを増殖させるための哲学。(旧:それでも幸せな人はいるから)

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「自分さがし」から「自分づくり」へ

スタバのサンドイッチって高くね?と放心状態の「ハピペン」です。

まあ、そういう朝もあるか……。

 

自分さがし?

かつて「自分さがし」という言葉が流行っていたと思う。個人的には、ハチクロが流行っているころ、強くそれを感じた。00年代半ばだ。

 

ハチクロはこれ。 

ハチミツとクローバーI&II コンプリート Blu-ray BOX

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ハチミツとクローバー コミック 全10巻完結セット (クイーンズコミックス―コーラス)

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ハチクロの内容を一言で表すなら、 「美大生の若者たちが恋愛と進路に喘ぎ悶え苦しつつも、そのモヤモヤを吹っ切る物語」(怒られそうだな)。

 

こんな見たくなくなるような内容なのだけれど、それが、ふわふわな絵柄で描かれているところに入力のネガが少ないこと、読後の爽快感があって読みたくなる。

 

そして、登場人物が抱く心情にかつての自分を投影。美大というリア充っぽい人たちも自分と同じ人間なのだという同一視。登場人物と一体になったうえでのストーリーが結末に向かい思いが昇華されるカタルシス。

 

実に素晴らしいエンターテイメントだ!

「うん!好きだよ!ハチクロ!!」

 

しかし、今では「自分さがし」という言葉は死語化しているように思う。

 

日常でこのワードを出そうもんなら「ああ、自分さがしね(笑)」「自転車でどこまでいくの(笑)」「青春だねえ(笑)」という感じになる。

 

大事なことなのになあ……見つけてもいないくせに、自分に出会うことを諦めた人々め……とか思っていた。

 

なぜ、自分さがし(笑)?

自分なりに考えた結論としては「自分さがし」って言葉に引っ張れて行為が意味をもちにくいということが悪いんじゃないかって思った。

 

「自分さがし」というと、メインは「さがし」で、見つけなくても終わるのだ。

かくれんぼであれば、さがす対象は明確なので見つかるが、「自分さがし」の場合は、かなり漠然としていることが多い。

 

本当に、目処なしで「さがし」が行われることの方が多いと思うのだ。

だから「自分さがし」をする場合には、コンセプトや目的、何が分からないのかはっきりさせてから、はじめた方がいい。

 

「自分さがし」→「自分見つけ」へ

そして、「さがすこと」と「見つけること」は違うのではないかということだ。

だから、個人的には「自分さがし」を「自分見つけ」にするだけでも、よくある「自分さがし(笑)」が解消されるのではないか、と思っている。

 

「自分をさがして」終わるのではなく「自分を見つけて」終わるのだ。

そうなると、見つけるための手がかりが自然と必要になると考えた。

 

行為の姿は変わらないが、その中身や意識、視点が変わるだろうと思う。

 

しかし、その時代も終わったなと思う昨今。

 

「自分さがし」→「自分づくり」へ

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「自分さがし」も「自分見つけ」も、もはやなんでもいい。

大切なのは「見方・考え方」ってことだ。

 

かくれんぼでたとえてみる。

かくれんぼは、これまでの経験則でうろうろ探す。これは遊びだからそれでよい。

かくれんぼで「かくれている相手をさがすことを"つくっていく"」としたらどうするだろうか。

 

つくっていくということで、たとえば、さがすことを構造化していく。

オニは、地図をもち、碁盤目のように線を引き、過去にどこで何度誰が発見されたかを記録していく。そして今回さがした場所はチェックして、次のエリアへ行く。

 

こんな感じに、「自分をつくっていく」としたらどうだろうか。

 

これまでを「経験をどんなパラメーターで構造化するのか」ということが重要になる。

そのパラメーターによって、自分の無意識を意識化(言語化)することが自分づくりに必要だと思う。いわゆる「メタ認知」というもの。

 

学習指導要領では「感情・情緒」の言語能力が「メタ」には重要だと言っている。その通りだと思う。

 

これまでの「経験」「感情」などをふり返り、自分を構造化していく。

その先で結果「自分が見つかる」と思う。「自分さがし」が成功する。「自分をつくりあげること」ができるってことだ。

 

恐らく、これまでの「自分さがし」は、出会いと運任せだったのだと思う。旅や学びの中から圧倒的な感情の変化が起こる事象に出会って「自分とはこれだ」と固定・決定できるような体験をする。

 

これを、地球というランダムに身を委ねて行うことが「自分さがし」。

 

しかし、ある本にあった一文を見て思ったのは、移動すれば自分が見つかるわけではないということだ。

 

「どんなに遠くへ行っても自分からは逃れられない」

 

自分とは、定点でも見つけ得るものなのだ。そもそも、探し回るというよりは「つくりあげていくものなのだ!」と確信している(めちゃ当たり前のことだろうけど)。

 

ただ、自分を創り上げていくコツは、まだ汎化しておらず、各々がマーケットを見つけて創意工夫をしている印象を受ける。

 

じゃあ、教育ではどう自分づくりに取り組ませるのか?

 

結局、指導要領に書かれているような、

  • 言語能力
  • 情報活用能力
  • 問題発見・解決能力

を育むってのが全うだろうなという考えに落ち着く。

 

ただ、それがどこに向かっているのかは、意識して、意図的・発展的に指導していく必要があるだろう。

 

大きなコンセプトとして「自分の人生を楽しむ」ってことが浮かんだ。

 

この「自分」をどう捉えるかにも、まだまだ多様な意見が出されている。自分を「分人」と捉えるというのもその一つだと思う。 

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

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簡単に一言でまとめると、「自分づくり」とは、これまでの歳月で積み上がってきた自分を問いによって再言葉化し、何が積み上がっているか再認識し、並べ替え、言い換え、関連付けて「どんな自分が創り得るか」を思考することである。

 

そして、そこから「その人の『在り方』と『ゴールイメージ』」を見出すことができると考える。

 

その「在り方」と「ゴールイメージ」は、自分と社会を紐づける鍵だ。

 

どの人間も生きている以上何かある。掘れば何か出てくる。何もない人間はいない。それは、価値がない人間がいないのと同じ理由だ。どの人間にも価値はある。ただ、自分も社会もそれに気づけていないだけなのである。

 

テンプル・グランディンが言う「世界はあらゆる頭脳を必要としている」という言葉の通りだ。

 

DAFLでやっていることも「自分さがし」ではなく「自分づくり」だってこと。

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