それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

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「対話」と「質問」と「尊重」

三連休にちょうど雨ってすごいなあと思っている「ハピペン」です。

 

 先日、運動会の練習中に、指導に個別に話している途中で横から大きい声で入ってきたので少し(結構)イラっとするシーンがあった。

 

大人気なくてすみませんって感じなのだけど。それはそれ。

 

そして、しばらくたって、向こうから謝られた。

 

詳細は省くが、非常に有難い解決策だと感じた。

 

自分から相手に一歩踏み込めるってのは尊敬しなくちゃいけないよね。 

 

私は、割と裏を勘ぐりすぎだし、自分は陥れられるんじゃないか、自分一人で責任を果たさなければならない、好かれていないなどとよくいろいろ思う方だ。

 

そういうのもあって、素直になれなかったり、相手を信用しきっていなかったりすることもある。

 

こっちにもそれなりの論とポリシーがあるから仕方ないのだけれど、それと真っ向からぶつかることが支援をやっているとある。

 

しかし、今回そこに対話があったため、一つ上を行かれたというか、賢い選択というか、こうやって着地できる先生に尊敬を抱いた。

 

  • 相手の気持ちを汲んだ謝罪。
  • 相手の考えを聞く質問。

 

そして、これは「他者尊重」のスイッチ。

そこには、その先生なりの反省があったのだと思う。

私も普段は多くの先生を尊重することを大切にしているつもりだが、指導観、つまり、児童の最善の利益に触れるときは吠えたくなる。

 

そのお互い我に返って、頭も冷やして、どう出るかで、そう出た。

 

大人って感じだ。やっぱりそこは強く尊敬したいところだ。学びになった。

 

それとなく、私が見落としているような示唆も示してくる。

 

想起している手だが、使っていない手。

親に働きかけるというやつだが。それより先に校内体制・態勢ですることがあるだろうと思っている。親に求めるのは、私たちが変わった後だろうって思ってしまう。

 

この間「フィードバック」の話をしたが、「謝罪」も「感謝」に入るのかもしれない。

そして、「質問」は、受け手によって「指導」にも「評価(自己評価)」にもなり得る。

 

「対話」の中で、お互いの考えが触れ合う。

刺激の話、怒鳴ることによる刺激の強さの話、私はそう考えているため怒鳴らないということ。

 

最後はとりあえず私の案で行こうとなる。

  • 逸脱行動にリアクションしない。
  • 誉めの関わりはあり。

そうして、私の論が試されることになる。どれくらいでどの行動が消えれば相手は納得するのだろうか。

 

相手は私を成長させよう、学ばせようという視点かもしれない。それでは上手くいかないと示したいのかもしれない。

 

そういうことをやっぱり想起してしまうのだけど、自分の軸を信じてやるしかないなって思う。

 

怒鳴られて構われていると感じて満たされるからちゃんとできるなんて指導は嫌だ。

怒鳴りの代替が誉めで可能ってことを示せるといい。

 

刺激による行動ではなく、"その子"を育ててやりたい。

 

 

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