かならず幸せになれるいきもの

幸せな子ども時代を過ごす子どもを増殖させるための哲学。(旧:それでも幸せな人はいるから)

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【社会はそんなに甘くないから?】だから「厳しく」指導する。へえー。それで、学習を「汎化」して「自分で考える子」に育てるんだ?

昨日は、塩分取っちまったぜー!!な「ハピペン」です。
諸々のタスクも終わり、ひと段落、ひと休み。

 

今回は、いや今回もなのだけど、いつも以上に超超超主観でしかないかつ挑発的な個人的な「そんな感じ」「そんな気がする」を展開しまくっています。すみません(変な自分に気づけたらとりあえず先に謝っとこう作戦)。

 

みんな疲れてきているのか、モヤモヤ発言をいくつか聞いた。それに心がピクッと反応する。「どこかおかしい……。」と。

 

何気ない会話の中で「自分は支援級だけはやったことないんだよね。支援級もいいかなって思ってる。ただ、自分がやった場合は、親とぶつかるかもしれない。厳しいって。できることはやらせるから。そうしないと中学校が悲惨って聞くし。社会だってそんなに甘くないでしょ」だそう。

(ふり返ってみると、ここには、対話の余地が山ほどあるんだよなあ。厳しくしたいのはどうしてか。中学校はどうして悲惨なのか。どうして社会を甘くないと思うのか。)

 

一言でいえば「理解者」と「環境調整」次第だと思う。

なので、オレは憂いさえ引き連れていかなければ何でもいいかなって思う。

目の前の子どもが、後々あのときあの人に厳しく指導してもらったからだ、と紐づける力が想定されるならそれでもいいだろう。

言いたいのは「やらせること」と「できるようになること」は違うし、変容はポジティブな角度で起こしたいってこと。

あなたは
「できないから適用するためにはできなければならない」というのではなく、
「適用したいからできるようになりたい」といった感じに。

その背景に、社会の捉え方の違いがあるのだろうなと想像する。

 

「社会はそんなに甘くない?」

社会がそもそも何故成立していったかといえば、便利でより多くの人が生きやすくなるからじゃないだろうか(権力者の思惑によってと言われたらもう黙ろう)。その公共の福祉感が薄れていって、厳しいものってする人が増えればそりゃ社会はどんどん厳しい化していくだろう。

「どんな立場の人の」「何に関して」厳しいのか?これは、大海原に飛び込むような質問だけれども、いつかしてみたい。片やその人は、自分は子どもに何も求めないとも言うからややこしい(のわりにってところが引っかかるのかも。在り方と言動が一致していないというような……あくまでも私の見え方だとって話で)

 

改めて「社会は厳しいところ」って捉え方。それは「能力主義」の世界にとっては、という感じだろう。

今もそういう場面は多々あるとは思うけれど、ソーシャルだったり、福祉だったりの場合、いかに「社会は厳しいか、能力が必要か」で人を捉えている人はもうそんなにいないんじゃないだろうか。社会や能力にその人を合わせる前に、その人に社会と必要な能力を合わせると思うんだよね。

そして、この先、社会に開く開くって言って開く開く詐欺を起こさないのであれば、学校が社会に合わせるとして、なおさら「厳しく指導する」は社会に合っているとは言いにくいような気がする。

となると、「社会は厳しいところモデル」の反対に「誰もが生きやすいために作られ日々更新されている社会」というモデルがあってそこに参加したい(貢献したい)から能力をつけたいというフレームができると思う。

社会参加のための能力は、ないと参加できないからではなく、参加したいから身につけるってことだ(仲間外れをしようとする教師が多すぎる?!究極は学習指導要領がって話なのかもしれないけど)

動機は「そこにいたいから、自分をよりよくしたい」ってことだ。

参加し、参画者となっていくイメージ。参加させられ、違和感から参画者になっていくっていうルートもあるかもしれないが。

 

「中学に行って悲惨」

それこそ、厳しい指導に頼るからではないだろうか。具体的にどう悲惨かは、本能を抑えられないみたいな表現をしていたけれど、それはトレーニングなく、教育という観点ではなく、謎の調教・しつけ・叱責・強制・否定によって子どもを動かしていたからでしょって思う。

人間を育ててなかったからじゃないですか?と大口をたたきたい。

厳しさは飽和していくしかない。それじゃスーパーサイヤ人が何段階あっても足りない。

たとえば「言うことを聞く子」よりは「話を聞いて行動を選択できる子」を育ようってことだ。

そうして、学習を汎化していく。

行動にはドーパミンか怒りか恐怖かが火をつけると言うが、怒りや恐怖では、ネガティブに出会わないための汎化であり、その怒りや恐怖を与える対象がいなくなれば、その行動もたちまち消去されてしまうのではないかと思う。

その子のためを思って学習したことを汎化させたいならば、確かな下地をもって行いたいと思っている。自分の目の前の行動がよくなっていれば、教えられたってことにしたくない。

汎化について、ものすごく丁寧に書いてくださっているブログがこちら『自分でできる体健やかブログ』。

作業療法士の方で、作業療法士を目指すとこういうことを学べるのか!と憧れる。めちゃ刺激を受けた。会ってお話を聞きたいくらいだ!!

happyhealth.hatenablog.com

happyhealth.hatenablog.com

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そうして「自分で考える子」、すなわち自律と自立に向かっていくのだが。

 

「自分で考える子?」

校外学習で、きっぷを買う場面があった。

4年生の子が金額のボタンを押し間違えた。しかし、お金をまだ入れていなったので「とりけし」を押せば大丈夫だ。違和感があったのは、その「戻っていいか」を先生に尋ねたことだ。

「先生間違えたので前の画面に戻っていいですか?」

こういうとき、軸がブレブレの教師は普段は「言われた通りにやりなさい!」とギャーギャー怒鳴っているにもかかわらず、「当たり前でしょ!それくらい自分で考えてやりなさい」と言ってみせる。

子どもは、自分はバカなんだと思うだろう(こじつけ)。

反省会で「きっぷの買い方」を学ぶ労力と価値が見合っているかが話題になった。教科書に載っているのでという理由が挙がる。そういうことではないじゃない?という意見も出る。そこで、押し間違えたという上に書いたシーンの話題が出た。だから、経験しておく価値はあるということだった。2年生のときのきっぷの買い方の学びが4年生になってきっぷの買い方を間違えない力につながる。のだろうか。

そんなにきっぷを買わないなら、学ぶ必要もないんでないの?と私は思ってしまう。だったら、買うロールプレイを教室で練習しつつ、買い方がどうしても分からないときのために駅員さんに聞く練習でもロールプレイしとけば?と思ってしまった。

「確かにきっぷの買い方よりも、困ったら駅員さんに尋ねる力の方が大切かもしれないですね」と言ったら何言ってんだコイツって顔をされちゃうわけだけども。いや、同じ時間消費してしまうならと思ったんだけどなあ……。

 

そして、話を戻すと「戻っていいですかって聞いてきた」って話で「ダメって言ったらどうするんですかね」とちゃちゃを入れた(うん。あれはちゃちゃだな)。

「いや、でも聞くだけ偉いですよ!」と返されたが、「えらいのか?これ?」と思った。

 

別にどれが正解ってのはなくていいんだけどね。ただ「自分でやる」ってのが抜けるんだよね。「姿としてできている」が成果だと思っているのか。なんなのだろう。

 

本当にそれって学んでいるのか?と考えたくなった。

その先生が志にしていることが「自分で考える子」だったので、なるほど「なんでも先生に聞くっていうことを自分で考えて選択しているんだよな。そう言われれば一理あるよな。深いな。」と思うことにした。

 

私なら「一人だったらどうするか選べ」って言うかな。今はそういう時間だとかなんとか。

 

社会はそんなに甘くないから?だから「厳しく」指導する。そして、学習を「汎化」していくことで、「自分で考える子」に育てる。

 

ん?って感じだ。

 

社会はそんなには厳しくない。だからこそ、なあなあに流されないように「自分の力でしっかり"自分を"生きられるように」指導する。そのために、学習を「汎化」して、「自分で考えて行動を選択・決定」できるようにする。

 

自分はこんなフレームを持っているだろうなあと思う。

 

そして、「言っていること」「やっていること」「やりたいこと」「やらなければならないこと」になるべくブレがないように子どもを見られるようにしたい。

 

余談だが、ふたせんも今日という同じ日にシンパシーを感じる似たような記事を書いていて、自分も頑張ろうって思った。

www.kesuke03.xyz

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