かならず幸せになれるいきもの

幸せな子ども時代を過ごす子どもを増殖させるための哲学。(旧:それでも幸せな人はいるから)

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【正常なライフスタイル】「13000字」の「自分史」

昨日(2017/4/21)、3年ぶりに1年目のときに一緒に働いた司書のSさんに会った「ハピペン」です。

異動することを独自のホットラインで聞きつけ、このまま疎遠になっては、ということで連絡してくださった。とてつもなく恐縮。本当に有難いこと。

「正常」の定義

【正常なライフスタイル】は、「アドラー心理学」に出てくる言葉です。
まず「ライフスタイル」と「正常」の定義。

○「ライフスタイル」

ライフスタイルとは、独自性のことだ。
生きるために大切なこと』P72

劣等感が刺激となり、ある種の行動を起こす。その結果、その人は、自分なりの目的を持つようになる。個人心理学では、この「目的に向かう一貫した動き」のことを(中略)ライフスタイルと呼ぶことにしている。
生きるために大切なこと』P74

○正常

正常な人とは、社会に参加し、社会によく適応しているために、自分の仕事が何らかの形で社会の役にたっているような人のことだ。
生きるために大切なこと』P77

【正常なライフスタイル】という言葉を聞いて、メジャーにも行けておらず主流でもないと感じる私は、「自分は【正常なライフスタイル】ではないのだろう」と思った。

そんな話をしている中で、Sさんが「ハピペンは独特だからとHさん(前任校の同僚)が言っていけど、私から見ると全然正常だと思う」と言ってくれた。ただ、その後に「私から見るとHさんの方がよっぽど独特だと思うんです。でも、私も独特な部類ではあるので、私が正常って思うってことは、実際正常なのかは分からないです」というものすごい解釈が入って笑った。

【正常なライフスタイル】という言葉にある違和感

ところで【正常なライフスタイル】という言葉はなんとなくいけすかない感じがする。

その理由は「正常なんてあるのか」って否定が、喉元まで出かかっているからじゃないだろうか。短絡的な人たちが「普通」って言葉が出た瞬間に、ついいつもいつも普通を求めてしまう自分自身に言い聞かせるかのように「まあ、普通ってのはないんだけどね」と付け足すような。

私は、その飽き飽きして聞き飽きた言葉のやりとりが好きじゃないのだけれども(なんでだろう?飽きるのかな)。

また、反対に「普通」ってワードが出たときに「じゃあ普通って何?」ってちゃちゃもうざったい。

大概、そういうときの「普通」は「正常」を謳っているのではないだろうか。

それは、言い換えれば「異常でない範疇にあるかどうか」。要は、誰が聞いても「ゾッとしない」か、みたいなもんだろうと思う。

誰が聞いてもゾッとしない在り方で、社会に生き、誰かしらの役に立っている。もしくは役に立とうとしている。といったものが「正常」が指すところってわけだ。

「非正常なライフスタイル」

上でも書いたが、私は自分の中にあるライフスタイル(生き方の癖のようなもの)に素直に「正常」を感じていない。

ただ、定義と照らし合わせると自分は「社会に参加しているし、おそらく役に立つことをしている」とも思う。

それでも、どこか気が晴れないような、だからといって決して「異常なライフスタイル」というほどではないのだが、私は自分の中に「正常ではないライフスタイル」があるのだろうと思った。

それを、あくまで「正常」を含むが似て非なるもの的なニュアンスで「非正常なライフスタイル」と呼ぶことにした。

こうした「ライフスタイル」の背景には、幼少期の体験、それも「劣等感のある体験」が関係すると言われている。私にあるどんな体験が「非正常」を感じさせるのだろうか。

「非正常」の正体

私は、卒業していく子どもたちに必ず言っていることがある。それは「ピンチになったら必ず近くの大人に相談しなさい」ということだ。

これは「教師が知っておきたい子どもの自殺予防」のマニュアル及びリーフレットの作成について:文部科学省に書いてあったから伝えているっていうのもあるけれど、自分がやってこなかったことだから、というのがある。

恐らく正常の人は、そこそこ「誰かを頼っていい」と認識して生きているのではないだろうか。私は、あまりそう思いにくいタイプだった。

これが私にとっての「正常」とは言えない部分。社会に参加していても、他の人とはどこか違いを感じてしまうような「非正常」の部分なのだと思う(もちろん今では、意識してそれを克服できているけれど、感覚としてそれが当たり前ではないという「非正常感」が残存している感じがするわけだ)。

もし、その残存する「非正常」の背景や体験(幼少期の出来事など)にアクセスし、正体を突き止めることが出来たら、私が「今ここにいる『軸』」かもしれないと考えた。

「非正常」の背景

私には、劣等感があって、排除されていると意識しない部分で感じていて「自分で頑張らなきゃいけない」とか「自分は認められていない」と思うところがあるのだった(この残存した自己はいわゆる成長しないまま保存されてしまったパーソナリティの一つで、アダルトチャイルドとかインナーチャイルドとか言われるものに似ているものだと思う)。

自分には自信があるのだけれど、根っこの部分でどこか自信がない」というような、ちょっと上手く言語化できないのですが、自分じゃ届かない自分みたいな自分が自信を持てていないと感じたのです(今は若干違うけども)。

私はその「正常でなさに『正常』を上塗りした形で鎮座している」。だから「非正常感」があるのだった。

どう生きていても、その自分が時折顔を見せ心臓を掴んでくるそんな感じ。

私は、その「残存した自分が求めたもの」と「今の自分が掲げているもの」がつながっていることをはっきりと示して、残存した自分をここまで引き上げる必要性を感じた

あまり面白くないかもしれないが、もう少し細かく自分史を辿る

もう少しだけ順を追って説明する。

私の自分史は3つに大別できる。

  1. 正常期(3歳まで)と異常期(9歳まで)
  2. 過渡期(10歳から14歳まで)
  3. 非正常期(高校から現在)

これらを通じて、私は「どの人間も生きていていい」ってことが言いたい。
脱エクスクルーシブ。

非正常期(高校から現在)のはじまり

近いところから遡っていく。

非正常期は「どの人間も生きていていい」という価値につながる感情に触れ始めた頃から触れている現在までを指す。

2001年

この感情に関連した記憶の最初は、高校生のころ(アイデンティティが拡散し始めて無意識的に残存する自己に触れ始めたということだと思う)。

この頃、ディカプリオが脚光を浴びていて、テレビでその活躍が紹介されていた。最初の違和感は、ディカプリオに対して「いやー本当に素晴らしい人生ですね」と言ったことへの違和感だった。「いや、素晴らしくない人生って別にないんじゃない?」って思いが強くアンカーとして残った。その人生の良し悪しが公にある前提が誰かを苦しめていると思った。

2004年

次のシーンは、2004年。私は、この頃死にたいと思っていた。理由はありがちな理由にすぎないのだが、恋愛や進路で不安を抱えることが多かったためだった。たとえば「必要とされなさ」に強い嫌悪感があったように思う。

ただ、考えに機転がきいて3歳頃の自分は本当に幸せでただ生きてたいとしか感じていなかったのに「死にたい」って思う自分って何かがおかしいと考えて踏み留まった。

ここでピンときたのは、小学校の卒業アルバムのクラスページの宝物についての質問で、周りが様々な同調圧力やノリで「命」か「お金」と書く中「思い出」と書いたことがつながった。半分他と違う自分でいたいという思いがあっただけなのだけれど、それも「自分というニーズ」や「差別化」を図りたかったからなのだと思う。「私は私でいたかった(痛かった?)」ということだ。

人は「思い出」がなければ、まるで自分が自分じゃないみたいだ。そうは、思わないだろうか?この他人に依拠しなければ、証明し得ない「思い出」を宝物にできている自分が自分ではとても面白いとその時感じた。

そして、「死にたい気持ち」について。私は、「あれ?いつどこで誰に、生きたいって感覚って覆されているんだろう?」という疑問が沸いた。

そして、そもそも「自分の生について」、私たちは非言語で抽象的には大切さを伝えられてはいるものの、具体的に「生きていていい」と言われたことがない。そういう単純なロジックが問題としてあるのではないかと考えた(そもそもの、人権的なところで生きていいのは当たり前のことだから、言葉化する必要はないとかそういうことではない。もし、そうだとしても、言語化されていなくても、まあそれで人権感覚が備わるならいいんじゃない?って方に話がシフトするだけ。それで自殺が減るといい)。

この頃に、幼稚園とは違う世界を求めて本屋に行くことも多かった。「14歳からの哲学 考えるための教科書」を読んで「なんて、分かりにくい本なんだろう」と思った。これじゃ、子どもが生きづらいのも無理ないなって。大人が生きるってことを難しくしてるんじゃないかとも思った。当時バイトの面接で夢は?と聞かれて5年以内に本を出すこととか言っていた(実際は、もっと分かりにくいことを書く人になってしまいました。しかも、もう14年後だし……あらら)。

その後しばらくスピリチュアルが流行ったと思う。なんでだろう?と自分なりにテレビを見ているとよく出てくる言葉があった。それは「大丈夫よ」って言葉だった。人々は、要は「安心」がほしい。「それで生きていてもいいんだよ」ということ。私は、やっぱりその背景には「正しい人生」と「正しくない人生」があるという考えがあるように感じた。

専門学校を卒業しても幼稚園の先生になっていない理由と、この辺りが合致する。幼稚園で発表会の練習に正しく参加しない子が叱られているのを見て、そういう先生を先輩として見習って自分も飲まれていってしまうかもしれないことが怖かった。いつか子どもを平気で否定することが仕事になってしまう自分になる可能性が怖かった。

今振り返ると分かるのだれど、当時は自分の中にとにかく確証や「軸」がなかった。私は、自由保育がいいなあと思っていたし、子どもが未来で生きていたいって思えるような体験をさせることが必要だと思っていた。でも、幼稚園は、それとは違う役割を持つ場なのかもしれなかった。社会性を育むためにそういう部分も必要ということだろう。でも、それを仕事にしてしまうと強烈に演技じみていて、自分に嘘をついて子どもと関わることになる。そう、また「自分が自分でなくなるような感覚」だからできないなあ、と思った。

2006年

私がもつイメージに確証をもったのが、特別支援学校で介助員をしていたときに出会ったOBの人のスピーチだった。2006年頃のこと。この学校には寮があった。だから、あまりお家の方が会いに来られないということがあった。となると、その寮や学校で家庭で教わるようなことを体験していくわけである。

OBの方はスピーチの中で「私はこの学校で食べ物がおいしいということを知り、花が美しく咲いて生きているということを知り、生きる喜びを教わった。」と言った。(すみません思い出しなので、というようなことを話された。)

私はその瞬間「そう!そうだよね!そうでなくっちゃね!」と思った。そして、恐ろしいのは、この感覚を日常を生きている多くの人が持ってはいるけどわざわざ思い出さなかったり、言葉化されておらず知らないのではないか、ということだと考えた。

私たちがもし一人で生きていたら「一人では食べ物がおいしいということも、花が咲いているということも知らない」のである。あえて言えば、一人では、そんなことすら知ることが出来ないのである。

OBの方が言われていたように、私はそこに「生きる喜び」が存在していると思う。

やっぱり、当時見た幼稚園での指導は「生きる喜び」につながっていないと思うのだ。もし「生きる喜び」につながることを意識できたら、指導の形は変わっているはずである。たとえば、みんなとやる「喜び」や「快」「幸福感」「楽しさ」のようなものを存分に示す必要があるだろうと思う。そう、この謎の存在否定(子ども自身の感覚否定)が、劣等感を生み、非正常につながっていると私は思う。

これは、いわゆる子どもに寄り添うってことなのかもしれない。幼稚園の先生の専門学校では、たくさんの中のいくつかだけ、そういうことを示す指導観を教わった。私の中には、それだけが今も生きていて、その見方を子どもも好きなのだなと感じる。

【リンクを貼りたい】

その後、派遣であえて営業職を体験した。人が好きというのがそもそもあったため、営業も好きかもしれないと思って挑戦してみた。しかし、やっぱり「子どもとかかわりたい」という気持ちには勝らなかった。「子どもとかかわる仕事をしよう」という気持ちをより強めて、仕事を探して出会ったのが「学童保育」だった。

2007年

「学童保育」に行くときには、幼稚園の頃と同じ轍は踏まないと強く思った。同僚に幼稚園のときに感じたようなものと同じ印象を受けたが、もう逃げないと思った。あの頃よりは自分に軸があった。そこの子どもたちは、その同僚がいないと悪さをする子どもたちだった。講演に落ちている握りこぶしよりも大きな夏みかんを踏みつぶして割って私の頭に投げて来たり、施設から締め出されたりした。でも、きつくは怒らなかった。純粋に挑戦状だよなとも思ったし、何か理由はあると思った。「子どもは気持ちの悪いことはしない」という思いがあった。それが「快」になってしまっている環境や指導が問題なのであって、子どもたちは問題ではないと思えた。

締め出したあと30分もしないうちに、子どもの方から声がかかった。私は一切「開けて!」とか「開けなさい!」という反応をせず、扉の前で座って待っていたので、思い通りの反応がなくて「つまならなかった」だけかもしれない。それよりは、一緒に遊んだ方がいいと思い直してくれたみたいだった。(もちろん中で悪さをするために締め出したのかは、確認済みだった。扉の鍵も持っていた。)

なんでこんなことするのだろうとちょっと思ったけれど、それこそ、幼稚園で子どもが練習に参加しないのと同じで、そこに価値を感じないからだろうと思った。単純に言えば、それよりも面白いことがないから、といった「つまらなさ」が原因だと考えた。

 夏みかんのときは「それは楽しくないかなあ」とだけポツリと言った。扉を開けて誘ってくれたときは「ありがとう」とだけ言った。3年生のうちの一人が気まずそうな顔をしながらもボードゲームがあることを私に伝え、準備をして誘ってくれた。恐らく私の対応は「合格」だったのだと思う。その子は、家でどうしても私とやりたいと言って、家から翌週家からボードゲームを持ってきてくれた。

私は、学童保育の仕事に就いて「さて、この子たちにどう『生きる喜び』を感じさせようか」と考えていた。ここの入所説明会や私が働き出すときの説明でもさかんに言われた言葉が「第二の家庭」という表現だった。私は「何気なさ」をコンセプトに、当たり前に安心して素で過ごせることを目指した。家族的であるために、呼び方も家族に呼ばれている呼び方で呼んでもらうことにした。(子どもが催したニックネーム募集では「バズライトわきげながいやー」に決定していたけど。じわるなこれ。)

ひとまず、当たり前に「ただいま」と「おかえり」が言い合えること。おやつのときに「おいしい」って思ったら「おいしい」って言える人間関係を目指した。

「ただいま」は、帰ってきたい場所になれば、自然と習慣化するだろうと思った。

「おいしい」は、思ったことを表現できる信頼関係と、それを否定する子がいなければできると思った。この辺りから「他者意識」をどうすれば育めるかを気にしていた。「自分しかいない」って思う子が少なくなかった。思い返せば「バズライトわきげながいやー」もひどい扱いである。

ただ、やっぱり思うのは、否定してこない人を子どもは否定できないのかもしれない。子どもたちは戦意を失っていって、普通に話しかけてくるようになっていった。

この頃「河合隼雄」の『「子どもの目」からの発想 (講談社プラスアルファ文庫)』を読んで「灰谷健次郎」を知った。「兎の眼 (角川文庫)」からはじまり、「わたしの出会った子どもたち (角川文庫)」などに強く引き込まれた。

この頃からなんとなく「先生」というものにあこがれ始めたように思う。

2008年11月にそういう日記を書いていた。ただ、そこでは「小学校の先生はできなきゃいけないことが多すぎて無理だ!」というようなことを書いている。

2009年

2009年8月、バンドのメンバーに殴られたのを機に、一気に教育にシフトすることになる(特段書いていなかったのだけれど、20歳くらいからバンドをやっていました)。

学童で働いていていて気になることもあった。学校では良い姿を出せないと言っている子ども。みんな仲良くって学校で言われない?と言うと「それは学校のルールでしょ」と言って来る子ども。学童には来たいけど学校には行きたくないという子ども。

他に背中を押したのが、学童の中でも特別甘えてきたり、関わりが多かったりするわけではない子が「ハピペンが学校の先生だったらちょっと楽しいかも」と言ってくれたことだった。

その子は、私が字が汚いことを気にしていると「じゃあ習字習えばいいじゃん」と言ってくれて「そんな先生いないでしょ」と言うと「Aちゃんのお母さん習ってるじゃん」と保護者の方で教員をされている方を挙げてくれて「あっ!ホントだ」と思わせてくれた(おかげ様で2年習うことができてギリギリ初段に合格できてとても嬉しかった)。

そして、私は、免許がないなら免許を取ればいい。ピアノが弾けないならピアノを習えばいいと思って進んでいった。同時に大学の勉強ができて、より専門的に子どもを見れるようになっていくことも嬉しかった。

2010年

小学校のボランティアにも行き始めて、やっぱり楽しいなって思っていたと思う。個別に関わった子が、年度が変わって大きく変化したのも、やっぱり「否定しなかったから」じゃないか、と思えた。5分と座れなかった子が年度内に35分座れるようになり、年度が変わってからは、座ってノートを自分から取るようになった(社会でオレンジの色鉛筆で書いてるときがあったけども)。

今思うと、これは<アドラー心理学>で言うところの「勇気づけ」に成功していたのだと思う。

2011年

実習へ行った年。これはこれで、職場にわがままを聞いてもらったり、忙しかったりだった。おかげ様で成り立っていることをよーく思い知ったのだった。

この年の2月のメモに「学童は第二の家庭」ということに違和感をもちはじめている。

学童で一緒に働いていた同僚は「学童も学校と同じだよ」といった表現をしていることがあった。ただ、保護者は「第二の家庭」と言って子どもたちを勧誘している。このズレって子どもは意識化したり、言葉化できないと思うのだけれど、なんか不信感をもつような気がする。

「学校ではない」のは確か。ただ反対に「家庭」ってするとわりとなんでも許容できてしまって、育つところがあまりないなあという実感もある。

個を育てたいと思ったんだけど、やっぱりあくまでも集団の中にいるときに個を育てることは、今後のためによくない気がする。

集団でいるときは、集団であって、そうすると家庭としての環境や役割が薄れるけど、それでも「集団を意識させていった方が育つ」と考えた。

集団を強要するのではなくて、集団を意識させるというのがミソだ。

家庭の役割を果たすという部分は、話を聞いてあげるとか、保護者の方たちが果たせていない可能性のある役割を果たすというイメージ。

そして、その話は共感して聞きつつ、保護者の方に伝えたらいい。
これらを踏まえて、学校と家庭の間というか、学校と家庭のつながりになるような、共通項「生活」を育てようと考えた(そもそも学童は学校と補完し合う関係といわれる)。たとえば、周りの迷惑になるかどうかを考えて動けるようにはしたほうがいい。

そうじをした方がいいかどうか、話を聞いた方がいいかどうか、あいさつはしたほうがいいかどうか、手をあらったほうがいいかどうか。みんな正解をいってはくれる。そこはスゴい。

だから、それができるかどうかが問題というと、気をつけてくれるようになった。あなたたちは何がよいかは分かっているんだから、注意をしてあげなさい。そうして、注意をするってことは、自分もできていなきゃいけない(この考えはあまり好きでないが、子どもたちがそうした)と子どもたちは少しだけ変わっていく。
そして、この集団意識には、一年生の不安を和らげていく。

私としては、子どもがやらないのは全部大人のせいで。反対に。片付けろって注意する前にそれが、片付けをしやすくなるような片付け場所かっていう話になる。

その他のメモ。

世界にはたらきかけられるような人間に育てたい。

そのためには、知る楽しさを知っていて、行動に実際に移して、影響を与えてっていう。あなたが生きているからこういう効果があったというのを打ち出していくことで、子どもの中に楽しさやこの世に対する信頼のようなものができていくはずである。

また、創造する楽しみも養う。生み出す楽しみ。

根幹を成すような考えも書かれていた。
学級で、一人の人格というような。みんなで答えていく。回答へ持ち上げて行く。チームワーク、共同体のような形。どこでそれがずれてしまうのか(幼稚園教育よりも)。そうして、私はどんな教育を専門にやりたいのか。

対症療法的なものではなく、先に仕掛けて行くものとして。人に対する環境ではなく、環境に対して人が成っていく姿を。

2012年

そして、2012年。同僚が産休に入り私が学童を任されることになる。

「学童は第二の家庭」という違和感を打破するコンセプトでいこうと思った。

家庭の様ではいいけど、家庭と同じじゃ困る。ここは家庭じゃない。

子ども自身にそういう意識がある。そもそも家庭でもらいたいものを外でもらってきちゃうわけがない。断固としてももらわない。そういうプライドがある。だから、それを押し売ると関係は悪くなる。あくまでそれはごっこであることを強調してあげなければならない。こちらが勝手に親のつもりで子ども扱いをしても、子どもは決して親とは思わない。

大きなルールとして、「みんなの学童」「自分の命は自分で守る」あとは「とりあえず自由」だと4月1日に真剣な顔して17時間前まで保育園に行っていたであろう子どもたちに話した。

ルールがは「みんなのことを思えていない」か「命がキケンなとき」に増えると伝えた。ルールをなくすことを目標にしてほしい。そして「あいさつ、手洗い、片付け」だけ頑張ろうと伝えた。

これが誰のためかは、何度も話した。11月くらいになると、発達障害の子も含め「みんながみんなを大切に」できる雰囲気ができてきた。

2013年1月18日に同僚とちょっとした言い合いになった。自分が正しいとして済ませるようとすることを問い正したのだ。そしたら「もういいです」と電話を切られた。その反動で、それは自分にとっては苦しいことだった。このときはじめてこの感情に名前を付けた。すると「つらい」という言葉が浮かんだ。そこで、これまでずっとこの3文字が言えなかったのだと気づいた。号泣だった。自分は「つらい」と言えない人間だったのということに気づいてしまった。

そして、2013年1月23日にその背景にあったのは「自分は一人だと思っているから」というのがあることに気づいた。実は私は自分から「私は排除されている」と思い込んで生きていたのだった。よって「人は一人ではないということ」「どの人間も生きていていい」という至極当たり前な前提を伝えるステージがあれば、生きやすい人は増えるのではないかと考えて先生をやっている節がある。

自立にしても先に「一人ではない」という所属の前提があってからの話になるはずである。

私にそのライフスタイルを作った中心人物は「父」である。私は、そのライフスタイル(フィルターのような、生き方の癖)を通して、人々と接してきた。

私は、困って「相談する」という選択肢が浮かびにくい人だった。人を頼っていいって知ったのは、わりとここ数年な気がする。

2013年~2016年

学校の先生を一生懸命やる。

2016年に教採で1次の面接で落ちる。こんなに神経すり減らして毎年終わるなら好きなことやったれーーー!!とずっと会いたかった東尋坊の茂さんに会いに行く。

ここで「自殺への関心」が一区切りつく。

同時にクラスの子の自尊感情が低い説が出る。高めるために夏に本を読んだ。

過渡期

過渡期(10歳から14歳まで)自分がいなくなるまで

10歳

横浜へ引っ越した。父の実家だった。この年は、とても楽しかった。
新しい学校の友達が好きだった。銭湯が流行っていた。

ただ、俯瞰しているところはあった。新しい自分を手に入れてしまうような感覚。元からあった俯瞰している感覚。私は、一旦3歳までの自分も、9歳までの自分も置いてしまったように思う。

転校してしまったからこそ、周りの人の顔色を伺う選択をしていたように思うし、自分を殺している感覚にも気がついた。「排除されない人付き合い」を考えるようになった。純粋に10歳になったっていうこともあるかもしれない。

11、12歳

5、6年で、とても仲のよかった子を毛嫌いするようになる。それは、どうしてかと言えば、今思い返すと端的には、その子は私がもっていないものを持っていたからということだったと思う。

本当に大親友になり得る子だったのに、なんかうちと違うからっていうので、否定したり、他の子と仲良くしたことに対して急激に嫌悪したりと私のキモイ感情で拒否した。

やっぱり、その頃も眠っているのは「私は選ばれるべきだ」というような感覚だ。「依存するために依存されたい」というような感じに近いかもしれない。

その辺りは、思い返すと自覚があったとはっきりと感じる。それだけ俯瞰して自分をコントロールしていた。悪い方にコントロールしていた。意図的に意地悪な考えをもっていた。同じ様でいながら、違う相手に「お前は違う」と突きつけているような感じだった。
もしかするとこれはそのまんま父親から受けたものかもしれない(なんでも父親のせいにするなと思うかもしれないが)。「お前は違う」ということ。このダメージが結局自分の行動選択に影響している。
あと、淋しさから来る嘘。小2のときに友達が帰る時刻と嘘の時刻を教えたことを思いだした(結局、ただ我慢できないってことかもしれないとも思う)。

私は外から見ると結構、あの子とはかかわらない方がみたいな子だったのかもしれない。

13歳

仲の良かった友達は不良になっていった。6年のときの超締め上げクラスと混ざって悪くなっていく。
中1でグループの中で戦いごっこが流行った(やがて不良になっていく人たちと)。ちょっと嫌だった。中2になるころには、グループから抜けていた。

抜けたのは、学区外から通っているから、悪目立ちするわけにはいかないっていう理由だった。

この辺りでは、ほとんど自分は存在していないと思う。ただ、なんとなく、毎日を行き来しているだけだった。楽なら良しって感じで。記憶不足。

14歳以降

トイレに呼び出されて殴られたり、友達をとっかえひっかえしたり、親友を切れさせたり、友だち関係が転々としたってのがある。この辺りで、誰も身寄りがなくなる。

周りの子たちも思春期が来ていて、繊細な時期だったのだ。そこに考えなしで、変わらない感覚でどかどかいってしまっていたのが私だったと思う。

未来のことなんて特に考えていなかった。ただ、思えば、そういう風に仲がごちゃごちゃだったから、つながりがあるようで別にないから、高校は近ければいいやってのがあったかもしれない。それはそれで、近い友達ができたらいいなってのがあったのかもしれない。

自分っていう人間はいつも常に誰かしらの救済者がいる。小5の保健委員のときの北村さんもそう。オレの苗字入ってるんだから悪く言うなよって守ってくれた(面白い切り口)。

不良になったDくんも何度か助けてくれた。この人は寂しい人で、小4時の温かさを引きずった人だったんだと思う。

この辺んは、ただ、とにかく自分と向き合うってことをしない時期だった。自分の位置って小4の記憶からそんなに変わらなくて、小3以前にもわざわざアクセスすることってなくて、本当にきれいに分断されていた。引っ越す前の方が良かったって思いが微塵もないせいもあるかもしれない。お別れ会をしてくれなかったことも気になっているのかも。引っ越し後の方が、固有名詞として求められている感じがした。
そして「オレってなんなんだ」って自己不在感が、一気に来るのが高1になる。

正常期(3歳まで)と異常期(4~8歳)

3歳頃の自分の原風景から私はこの世への信頼感を取り戻した。

私はあの頃、地球を一切否定していなかった。大人になることが楽しみで仕方なかった。自分はこんな気持ちを抱いたまま、幸せな大人になっていくのだろうと思った。ある日の公園の風景にそういう自分が浮かぶ。

けれども、どうしても辛かった。抑圧されていた。排除されていた感覚があるように思う。

たとえ、実際それはそういうことではなかったとしても。

言い出せなかったこと、扱われなかったことがとにかく苦しさとして残っている。

と、ざっくりここまでが自分史。

最後に

Sさんと話している中で「ハピペンは、このまま先生をやられていくんですか?」という質問があった。
「今のところしたいことに合致する仕事が先生以外にない」と答えた。

  • 多様な子とかかわれること。
  • 一生子どものことを考えていていい仕事であること。

そして「あと『どの人間も生きていていい』ってことを伝えたいってのがやっぱりある」と付け足したら、「それ、ずっと言ってますよね」と言われた。

(えっ、そうなの?実際の会話量が先生同士よりは少ないはずなのに、そこでも言ってた?!)

と久しぶりの司書さんと話すことの楽しさに加えて、過去の自分にまで出会えて嬉しかった。

おこがましいのだけれど、何かと共通点があるようにも感じた。

・究極の問いにぶつかったことがある
・自分の能力をどう仕事に結び付けられるか悩んでいる。(自分の感性に価値があると感じているのだけれど、どう値札を付けて売ったらいいのかが分からない)

・己に反することは己が許せない。ブーメランもある。
・(誰かしらに怒られそうだけど)GLAYよりラルク派
・音楽は好きだけど歌いたいことが浮かばない
・正常なライフスタイルとは違う何かを自分自身に感じている

など。

そして、話を聞いている中で、私の迷いに似た色を感じながらも、司書さんには私にはない多くの芽を感じた。

「社会学に精通しているということ 、音楽で仕事を受けているということ、司書ってこと、あと一つとても魅力的なパーソナリティ」。

これらが、いつか組み合わさって枝葉を伸ばしていくのではないか、と思った。

「自分イノベーション」な時代に見えるものがありそうだよなあって。

そして、今朝、振り返っていて思ったのは、もし昨日の出会いで感じたことをこちらにも転嫁していいとすれば、私は司書さんに感じた多くの芽は、「同じように私にもあるのかもしれない」ということだ。

司書さんは、司書さんなりに芽を感じて、だからこそ会いに来てくれたのかもしれない。そう思うと、なんだか、胸がジーンとする。頑張りたくなるような、本当にわざわざ時間をかけてくれることに感謝が溢れる。

私は、その「人と人とが関われる普遍的な偶然の喜び」が好きだ。これが、「どの人間も生きていい」ための鍵だとも思う。(そして、この裏には「自分の存在否定」があるのだと思う。それだけ排除は傷つくってことだ。とても幼いころに感じた排除の種なのだと思うけれど。司書さんもそういうもの知っている人だった。これが、生き方の癖とも言えるライフスタイルになってしまっているものなのだろう。

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