かならず幸せになれるいきもの

幸せな子ども時代を過ごす子どもを増殖させるための哲学。(旧:それでも幸せな人はいるから)

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【やらない言い訳の達人になりたくない】気持ちとかやる気とかのせいにする前に考えることはないか?

帰りにアイスも買っちゃうなーな「ハピペン」です。

 

私はね、人って常にそんなに均質的な状態を生きていないと思うんだ。

教育活動のすべては、3月、もしくはそれ以降のバックがあるからこそ選択している教育活動でありたい。

 

そうすると、目の前の「ハピペン」からの学びを最大化できないのではないか、という懸念はあるが……完全なるオレismでオレを残すよりは「自分で学んで行けるような、生きていく力」を手に入れさせたい。

 

どうすれば、生きていきたくなるか、といえば、結局、学校生活への活力、意欲が子を伸ばす。

だとしたら、学校は一番に意欲を育むって役を担っているはずだと考える。

しかし、意欲を持てない子が悪いのではなく、意欲を持たせられない環境が悪いという当たり前のロジックを職員室は回避しがちだ。

できないこと、できなそうなことをやらないため、手を出さないため、目指さないためのロジック。

 

マジョリティを大切にするためには仕方ないのだろうか。それだと、サンデルもビックリだ。

問いを「いかにマジョリティを大切にするか?」ではなく「一人でも多くを大切にするにはどうすべきか?」に変えればいいのだけれど、疲れていると現状維持、余裕がないと新しい問いに取り組もうという発想がそもそもない。

無意識にオートメーションに、結局、自分は悪くない、正しいことをしている、でも子どもに力が付いてこないという論理が容認されすぎだ。

 

起立性調節障害が本人の気分次第なんて語られていると強くそう思うし、来られる日もあるわけだから遅刻は本人次第だというロジックも。

 

全部、環境次第だろって思う。

 

そして、学校における最大の環境は教師だ。

教師がその子にとってポジティブであれば学校は楽園化する。

別にその子のために何かを猶予したり優遇しろってことじゃない。

誰にとっても快い人間になったらいい。それには決してなれないだろうが、それを目指すところにしか、善はないと個人的には思う。

 

そして、それって、実際は、単純に「あらゆる事態を未来の幸福に紐づけられるかどうかの人間性」でしかないんじゃない?と思う。

 

人間の生は幅広い。無限だ。どこにでもどんな人にもどんな形でも多様な幸せがあちらこちらに転がっている。

 

その瞬間にいかに教師が感情を逆撫でされるならから、と子どもが否定されないこと。上手に失敗に導かれ、自ら「気づき」を得た方が学ぶ(大人はこれだと遅い気もしているが。半年かかる)。

 

学校は教えるところではないのかもしれない。教習所じゃないっていうね。

 

学ぶところ。

 

そう考えれば、今目の前の子が何かできないことをそんなに疎んじることもないし、怒鳴りたくなることもない。

自分が関わっている目の前の子への影響を悪い意味で最大化しすぎなのだ。今、私がここでこの子をなんとか無理矢理にでも変えないと大変なことになる。何が大変って、来年崩れた時に、私があの時って言われるかもしれない。だから、自分の時は平気だったという準備をしなければ。だから私の影響は大切なのだ。もしくは、未来永劫ここでこそ、この子を私が変えなければならない!そんなナルシシズム(これで人がついてき始めたら教祖まっしぐらだ)。

 

そこで直そうが直すまいが、その子はその子として未来で幸せにやってるよ。そう信じてるってことを子どもに伝えておしまい。

選べよ。今と未来はつながってるからな、とか言って。自分の知ってる全力で選択することを提案してもみるかも。

 

この辺りの怖いのは、後々の「あの時厳しくしてくださったおかげで」系の感謝って、「無事、社会で浮きませんでした」って感謝なんだよね。

いいから、てめーは幸せなのか?開かないからとかではなくて、お前としてお前を生きられてるのか?ってことが気になる。

浮かないことへの幸せも通過点としてあっていいけど。

そもそもその社会の良し悪しもよく分からない中でその社会で浮かない(沈んでんの?君?)ってことに感謝される教師って……って思うんだよね。

 

まあ、なんであれ、ある社会に適応させられたなら、教師冥利に尽きるのかもしれないが。

 

本当にそのために教育してたの?って自分にも大きな声で問いたくなる。

 

そしてね「あらゆる事態を未来の幸福につなげあるかどうか」に必要なこととして「知恵・知識」がある。

 

ここが、みそだし、肝だ。

人は「知恵・知識」によって、自分の認知を変え、行動を変え、感情を変え、幸福に紐づけることができる。

 

また、別に「紐づける力」も育む観点はいるだろうけど、要は、学びは幸福のためである。

 

一歩踏み込んで、幸福は何かといえば「自分の安心・安全な場(空間・時間)を拡張すること」だと思う。

 

それで、何が言いたいかというと、そこに「自分の未来の幸福」が紐づいていなければ、今への明るい実感なんてもてないし、今を幸せとも思えない。

 

「そんな学校なんかに、やる気も意欲も活力も出るかよ!」ってことが言いたい。

 

目の前の子の事実を許容しようよ。

眠っているやる気があるっていう「フィクションのその子」をその子とするのではなく。どれがその子なのか、それは、本人が決めることだ。ピグマリオンはするとして。

オレらが、どのその子をその子とするかに口を出すのは違うと思う。重く違う。

 

だから、アイデンティティ。

「それでもその子はその子として育ちたい」ってことを踏みにじらない教師でいよう。

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