かならず幸せになれるいきもの

幸せな子ども時代を過ごす子どもを増殖させるための哲学。(旧:それでも幸せな人はいるから)

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「それでも幸せな人はいるから」から「かならず幸せになれるいきもの」へ

書きたいときに書きたいことを書こう!「ハピペン」です。深夜帯になると、いつもと違う脳が働いて、ふいに何かが紐づいて紐づいて言葉に残したくなる。

 

引き続き

親の心・子の心 (シリーズ・現代の子どもを考える (11))

親の心・子の心 (シリーズ・現代の子どもを考える (11))

 

 

このシリーズは、すべて以下の構成で書かれている。

  1. 総説:問題の所在を概観する
  2. 現状と実態:内外の資料を網羅しながら子どもを浮き彫りにする
  3. 原因と背景:なぜそうなったのか理由を探る
  4. 対策と治療:臨床の最前線における活動を紹介する
  5. 座談会:自由な討議によって、問題の所在をより明確にし、掘り下げる

 

最後の座談会を見ていて紐づいたこと。

何か問題を論じるときに

いかに他の90パーセントの子どもがそうでないか、ということについて、一つのシステムで論評できなければ、それとこちらの10パーセントと、社会との関係があるということはできないわけです。

10パーセントに不適応などが起こっていても、それは全体のことではない。

しかし、

決して一部のごく例外的な子どもにのみ見られるということではなくて、そういう可能性を表面はおだやかで問題がなさそうに見える子どもたちも、同時にもっている。

この考え方を絶対に忘れたくない。

90パーセントの子、10パーセントの子は、分断されているわけではない。

トータル、どの子も否定できない。どのシステムも否定はできないってことだ。しかし、システムを明らかにしてみる。どうすれば、10パーセントの子も90パーセントの子のような(あくまでどの子もありのままそのままどんな生き方をしていても決して悪ではないという上で、でもこうすると生き心地がよいかもよ? というような)提案ができるかは考えても悪いことではないだろう。

要は、90パーセントの子も、10パーセントの子も、もっとよくなるにはどうしたらいいだろうか。そう考えられれば良い。

システム全体をよくするには?というのが問いだ。

 

これらから、自分がシステムを肯定した頃の話、それを改めて「ちょっと待った!」とした頃の話を思い出した。また、その話がブログのタイトルに関係している(意識的にそうした)ことも紐づいたので、この機会に書いておこう。

 

「それでも幸せな人はいるから」

以前までのブログタイトルは「それでも幸せな人はいるから」だった。しかし、自分のステージが変わったような印象を受けて変えることにした。

どういうことかっていうと、これまでの自分に対する見方って「マイナスから0」の人生だった。なんとか0になりたい。

これは、母親の普通を目指そうとしたマインドセットの影響でもあるように思う。とにかく、「一般的」と言われるところに行きたい、メインストリームでありたい、マジョリティでありたいというようなもの、メジャーでありたいというようなもの。できるだけ多数派。ただ、その立場ごとに「マイナスから0」であったり、「0からのプラス」であったりいろいろな観点があると思う。

意識している自分はは、随分マイナーでマイノリティでって感じ。

くすぶった自分。それをなんとか引き上げたいと思っていた。面白いのは、普通なんて目指した時点で自分の異常性を認めてしまうようなもので、その異常な自分を世に見せつけているんだから、世の中の自分への認識は異常が付きまとうわけで、堂々巡りで延々と改善できない渦に入っていくよう。

結果、それが「ハピペンなんだよ待ち」だったみたいになって、それでいいってことになる。「35歳になれば分かる」っていう先輩もいるけれど、また、大抵大体そうなんだろうな。

私には、人間について考えたい、残したい(ゆえに後世に伝える)、自分を表現していたい、&(つながり)のある人生を謳歌したいといったニーズがある。

でね、「それでも幸せな人はいるから」というのは、わりとマイナスな気分からの視点だった。要は、0を目指した言葉。

辛い、苦しい、悲しい、きつい、無理、大変、怖い、不安、やりきれない、絶望的、限界、こういった視点、ネガティブなワード、そういうのを抱えた立ち位置から生まれた言葉。

けれど、地球とのつながりは忘れないというような、生きている以上今を肯定せざるを得ないというような、前を向くための言葉。

だって、生きちゃってるんだから。それで、笑っちゃうときがあるんだから。おいしいって思っちゃうときがあるんだから。ありがとうって言いたくなるんだから。喜ぶ瞬間の自分がいるんだから。

どういうことかっていうと「震災があっても今日幸せな人がいる」っていう事実からそう考えるしかなかった。

不幸せな人もいる。でも、幸せな人がいるこの地球を否定するわけにはいかない。それは、誰かの幸せを否定することになる。自分は地球に文句を言って、誰かの幸せにケチをつけてまで、自分を護りたくない。だったら、この地球で幸せな人がいるなら、それでいい。そんな風に思っていた。

それで書いた歌詞。一部。

ペイ・フォワード

もし誰か本当に幸せな人がいるなら 苦しかったこんな日々も

静かに愛しく感じられるから ほんのり命をまた信じたくなる

本当は世界は思ったほどクソじゃない

「本当は世界は思ったほどクソじゃない」は、映画「ペイ・フォワード [DVD]」のセリフからもらっている。

誰かのための夜があること 気づいて少し笑えたんだ

辛すぎて耐えられない出来事 泣き続けても消せない

誰かのために僕もあれたらな

 

悲しみは消せない だけどその憂いのすぐそばに

一人でもいてくれたら 傷ついた明日は優しさに変わって

また空の青さに気づける日はくる

「憂」いも誰かが「一人」いてくれれば「優」しい経験に変わるというようなことが言いたい。

 

2011年「地球の完全性」を感じた。今を享受すること。すべては必要な盤上に配置されていると感じていた。震災から感じたこと。そんなのが完全でたまるかと思うけれど。自分は、あまり、震災とかかわれなかった。過去形で言うのは失礼してしまうね。ならば、関わればいいだけの話で、これは来年に組み込みたいことだ。

それでも、やっぱり理不尽がたまらない。まだ「気づいた人が動かなければならないときなのだ」と考えさせられて、現在の自分にコミットできている自分がいる。

「こんな地球に乗った覚えはない」という言葉が自分の中でスマッシュヒットしていた2012年。

 

そして「かならず幸せになれるいきもの」とした。これは「0からプラス」をイメージしたくて変えた。DAFLで「他者が少なからず多少は肯定してくれる自分を自分も肯定しょう」と思えた、起点となるような経験をできたのが大きい。

それに、そういうマインドセットがないと、子どももプラスの方へ導けないと思った。教師の自尊感情が高ければ、子どもの自尊感情も高まるというデータがあるそうなので。

 

「それでも幸せな人はいる」という他人事ではなく、「お前もこの地球の幸せの当事者だ」ということを訴えたい。

みんな、誰だって、どいつもこいつも、お前も、人っていうのは生きてさえいれば「かならず幸せになれるいきもの」なのだから、ということを掲げていたいのだ。

 

一貫して「マイナス→0→プラス」であり、プラスの値に進んでいるっていうことに変わりはないっていうのが、「ハピペン」のいいところだと思っていますぅ。

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