かならず幸せになれるいきもの

幸せな子ども時代を過ごす子どもを増殖させるための哲学と甘い毒。(旧:それでも幸せな人はいるから)

【たまには支援の話】やっぱり「否定しない」は強力

久しぶりになわとびを誉められた「ハピペン」です。「かえしとび」が出来る子を量産しています。つながると廊下での挨拶率が増えてちょっと嬉しい。みんな「できたい!」のだよねぇ。

 

昨日あんなこと言って、今日その子が疲れで休んだらどうしようとか薄っすら思っていたのだが、教室一番乗りで私が教室に行ったらもう校庭に行っていた。

 

今日その子は、幼稚園の頃よく遊んでいたクラスメイトと遊ぶらしい。

 

自信→コミュニケーションが増える→つながる→プライベートでも遊べる

 

「自信」と「つながり」って大事だよね。

 

また、ちょっとしたところに気遣いがあって素晴らしい。本当にどこからそういうセリフが出るんだろうと思う。まあ、迎合しているだけかもしれないが。

 

「今日は、みんなが来るからポテチを用意しておこうと思います。あとAさんは、炭酸が苦手だからお茶ですね。」と。

 

こういう子も交流級でつっぷしていら可能性があるのって勿体ないよね。

 

(近くで、子どもが「特急ロマンスカー!!」とめちゃ叫んでいる(笑))

 

急に毒っぽくなってしまうのだが、教師の子どもへの評価が、学級には伝染する。クラスに力のある子(できる子)にとって良い先生なほどそうだ。

そして、教師が良い子に認められている限り学級は回るので、できないあの子が頑張らないのが悪いといった文脈は作られがちだと思う。極端に言えばね。私は、全員にくまなく目を配っていますっていう人もいるだろう。ただそう強くでることも、その主語が"私は"になっていることも怪しく、実際一人で30人以上を管理するのは尋常じゃないと思うので、目を配っているとすればある程度であり、私は目を配れないため子どもたちのリレーションづくりに努めていますくらいが妥当と思う。

いいから、得意な子が相手をすりゃよくない?と思う。なんでも先生じゃなくて、クラスで学びを最大化したらいいのにって思っている。

 

すべては見えない証拠ではないけれど、本当に多用な子がいて、その子の立場を少しでも察知しようとして、ほぼほぼ勘なのだけれど、的中させられると子どもは活動に参加したり、自分を改めたりしてくれる。

 

3例出す。

 

空きの時間、どこかのクラスに入ってみるということを相変わらずやっていて、1H見た中での抜粋。

 

1.分からないと止まる子

どうやるのか?

今何をするのか?

次にどんな動作をすべきか?

など、具体的にどう身動きをしたらいいか分からないと止まる子がいる。

 

こういう子への悪手は「聞いてなかったの?」や「早くやりなさい!」だ。

 

「いや、説明が下手で分からなかったんです」と返せれば、王手で詰みなのだけれど、そうすると違うルールを持ち出されるので投了である。

 

「先生に向かって!何てこと言ってんの!」とかね。「私は先生だ」って言わなければ先生と思われないような先生って先生なのか?

 

好手は「どうしたの?」である。

ただ、答えてくれないことの方が多いかもしれない。それは委縮しているからで、間違った答えを言うと大人の話が長くなったり、イライラをぶつけられると知っているからだ。

なのでここからは図星合戦がはじまる。まず出来たことをさがす。このときは習字だったので「もう"い"と"信"書いたの?」と聞く。

すると「書いたよ」と言ってくれる。「おお、やるじゃん、どれ?おー形いいね!それで次は何すんの?」と聞く。

この辺りで、この人攻撃しに来たんじゃないんだと思ってくれる子はまだ心が傷だらけでないと私は思う。

それでも答えないこともある。小声で「何?なんか困ってんの?」と聞く。そしたら「筆を洗うのか分からない」と帰ってくる。

その子の中ではもう習字は終わっていて、だるま筆を持ち帰ってどう洗うのかが分からないと言っているのだった。もうすこし通訳をすると、だるま筆は普通の筆と違うから何か特別の洗い方があるかが気になっていた、それが分からないから止まっているのだった。

 

そういう感覚のある子ならではの疑問で、随分を気を利かせるなあと思う。もしかしたらを想起しているわけだなあ。

 

だから「普通の筆と同じように洗って大丈夫だよ」と伝える。その瞬間、次の行動を始める。といっても、片付けはじめたので「他の文字も書くって言ってたよ聞いてた。別に聞いてなくてもいいから、どっちか書いたほうがいいよ。」と教えた。

弾むようなステップで半紙を取りに行き、再び字を書き始めた。

 

一定数いると思う。自分なりに分からないことがあると、それはおいて置いて作業ができない子。実際は、いちいちそうした子に構うことは大変なので、周りの3、4人がもうその子が大体どういうことで止まるかを知っていて「どうしたの?」と聞いて、周辺の人たちだけで解決できるようにしておきたい。

ただ教師ができなければ、そのモデルを示すこともできない。学級に自然に勝手にその子思いの子が生まれるわけではない。

知っていれば簡単なことだけれど、突破口が見つからないことも少なくないのかもしれない。

 

2.受け入れられたい子

受け入れられたいという感覚は、今の子には多いものだ。特に、上下関係である教師に認められるよりも、横のつながりである友達にリアクションされたい子が少なくないと思う。承認欲求ってやつだ。

どうして承認欲求が強くなるかにも関連するのだけど、そうした子は、ちょっと思いついたことをやりたくなってしまうという要素も持っていることがある。

だからこそ、注意されがちという経験をもっていることが多い。そこから、二つのパターンの受け入れられたがりが生まれる。

  • 心が落ち込んでいるためリアクションされたい場合
  • リアクションされることに慣れていて中毒的にリアクションがほしい場合と二通りあると思う。

前者にはコツがいる。

後者であれば、微笑んで取り合わないことだ。はばんだり妨げたりするとしてもあまり声でいかない方がいい。私は体か小声にすることを気を付けている。

 

前者については「傷つかないつっこみ」が必要になる。リアクションするということは、受け取ったということなんだけど、「わかったよ」というメッセージを送りつつ、次にすべきことに促すということを試みる。

 

たとえば、Bさんが墨汁の容器を筆でたたきながら、鍵を片手に持って念仏を唱え始めたとしよう。

初手として「準備できた?」と声をかけてみる。実際はもう準備ができているため、これは次の動作は?という問いである。「半紙を用意して字を書け」ということに気付かせたかった。

しかし、止まらなかった。どうしてかというと、Bさんがやっていることに対してリアクションしていないからである。

Bさんにとっては、Bさんを無視していることと変わらない。だから、こちらも当然無視される。

私はどうすれば、受け取りつつやめさせられるかを考える。周りの子も「B何やってんの?」と言い出す。私は分かっていることを伝えればやめるかもと思って「木魚じゃない?いい音するね。」と共感の一手を打ってみる。

しかし、やはり、それでも止めない。一旦離れて様子を見る。何気なく、机間巡視をしながら近づく。

「おーまだやってんのかい!もうね本当に有難い念仏をありがとうございます。和尚さんね、有難いので、どうか次に進んでもらってもよろしいでしょうか。」と言ってみる。ああそう?という感じに止まって、半紙を用意しだした。

「おっ、さすが、いいね、切り替え上手じゃん!」とか言って見守る。書き出すと筆の持ち方は下手だったけど、入筆の角度が良かったので、それを誉めた。筆の持ち方も一応アドバイスするけれど直らない。何週目かの机間指導で、近くにいた習字を習っている子にも見させ「入りめちゃ上手いよね」と同意を求め、やっていることの良さを感じさせた(つもり)。

ただそれからまた別コースに入り「い」を書きながら半紙中を真っ黒にすることをはじめていた。下敷きに少し写っちゃうくらい。

次書かないの?と言っても進まない。

そういうときに「パッ」とシステムに目を向けられると良い。新聞がないなあということに気付いた。以外と子どもが何かをやらない理由っていうのはきちんとあると思っていて、おそらくそれだろうと思った。

なので「おお、随分たくさん練習したね!もうこれはいいよ、次行こう!次!あれ新聞ないじゃん!それで困ってんのね(そうでなかったとしても、それでできなかったってことにしてあげる。やる気とかその子が否定されることでなくて、そうってことにしちゃえば乗れるような理由のせいにしてあげると子どもは次に行きやすいと思っている)じゃあこれはオレが預かっとくから、どんどんやってよ。」と言って、真っ黒の半紙をもつ。周りの子が、「えっ!先生手についちゃうよ」と、ちょっと騒ぐ。「いいのいいの、今は、字をたくさん練習できることが大事なんだから、先生なんか気にしないで、字が書ければいいんだよ!」と伝える。「今は、字が書ければよし!手は洗えばよし!」といって、もったまま、字を書くのを見つめる。恩に着せておくと、多少の願いを聞いてくれるようになるので、取れるときにアドバンテージを取っておこうという考えがある。

担任がビックリして新聞を出してくれる。それを切ってやって「大切なの、はさんどいたからね」と言って渡す。ふざけかもしれないのだけれど、真剣にやっているのだよねと信じている姿勢でいく。その子を全面的に受け入れているような雰囲気でかかわった例。

受け入れられたい系に厳しく言ったり、注意したりすると、逸脱行動はエスカレートする。後日「B、座れよ」と同級生言われただけで、「なんだお前!文句あんのか!」となっているのを見た。

こうした子へのかかわりも、教師がモデルを示すことで、仲良くかかわれる子は増えるんじゃないだろうか。

 

3.気づきまくりな超見える子

やはり、一定数よく見える子がいると思う。思ったことをついやってしまうというのもそうだけれど、その理由に超見えてしまうからっていうことが少なくない。

どういうことかというと、他の人が黒板のある文字を集中して見られるとして、この超見える子は、黒板中のチョークの消し忘れや、点の残り、黒板消しの消し後などいろいろなものが一気に見えているんじゃないかというような子のこと。

 

この子超見えるなあと思ったのは、一目である子のトレーナーに墨が何か所ついているか言い当てことだった。その数7か所。一目見て、7か所に墨がついていることを言い当てられる力がある子が、周りの子と同じように集中するのは大変だと思う。

 

まず、聞くが出来ないと思う。それだけ、目から情報が入ってしまって、忙しいんだから。

 

そして、その目があることは、どうしたってコントロールしきれない資質だと私は考える。私たちが気力で視力を回復できないように。もちろんビジョントレーニング等で、能力開発はできるかもしれないが。

そうした子も認めると落ち着く。気づいてしまったことを言う度に怒られるリスクのあるような子なのだけれど、「Cさんは、これ見えたんだね」と返すだけで、しばらくは黙っている。

つい見えてしまう、つい言ってしまうだけなのだ。

その能力を否定しなければ、安心できるという良循環が生まれる可能性もある。

変えられないものを注意されるのは苦しく。結果その子は委縮するしかない。そんな素敵な目を、周りの子が気づかないようなことに気づける力をもっているのだから、活かしてあげたいところだ。活かすことができれば、周りにも恩恵がある。周りの子の目では体験できないような気づきが得られる可能性がある。こういう子を委縮させるのはもったいない。

その子が過ごしやすいように、伝えるってことを考えてあげられるとよい。

ただ、この子も筆の持ち方がいまいちだった。

 

総じて共通することは、「不器用」ということだ。

身体の使い方がうまくいかない、それを指導されずに注意だけされて、心のコントロールもうまくいかない。

さらに言えば、自分を自由に使えていないという感じだ。

教師の指導言の刺激によってコントロールされてきているからか、自分でコントロールができない、というように見えてしまった。

 

当たり前だが「させていないことはできない」。

そういう子には、何をさせるか?筆の持ち方を指導するのか。本当は違うのだ。

そもそも身体をコントロールする力が弱いのだ。おそらく、それは書写の時間だけでは、補いきれないものだと思う。だから、6年間があると考えるとどうだろう。

要は、筆の持ち方ができないから筆の持ち方が指導されてきたのかもしれないが、原因はそこではなく、筆を持つための能力への指導が必要だということだ。

 

どの子も生かすには、どの子も生かしてくいくために成長させるために多用な視点をもっている必要があるし、どの子も生かせるのだという感覚や考えを持っている必要がある。

言葉が悪いが「あいつは使えない」の主語は「私は」だ。「私はアイツを使えない」のだ。

 

やっぱり、私は、自分ごとに返せる教師だけが、子どもを快く前向きに導けると信じている。

 

最後に、

これらの理念の根底は「否定しない」ってことだ。

そして、上に書いた対応、心から信じているという風だけは抱き、なるべく終始笑顔で行う。