かならず幸せになれるいきもの

幸せな子ども時代を過ごす子どもを増殖させるための哲学。(旧:それでも幸せな人はいるから)

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「『まあ良い』は信仰」と「人身事故」

道路挟んで20mくらいの距離から「ハピペンせんせえーおはよーございまーす!!」と言われる「ハピペン」です。その情熱……嫌いじゃないぜ。ありがとう。

 

自尊感情について考えることが多い。

ローゼンバーグの自尊感情尺度が有名。そして、ローゼンバーグは、自尊感情について「まあ良い」と「とても良い」の二つの側面があるとしている。

 

「まあ良い」の方は、基本的自尊感情や自律的自尊感情と言われ、「ありのまま、今の自分を『まあ良い』」と感じる自尊感情。

 

「とても良い」の方は、随伴的自尊感情や他律的自尊感情と言われ、「他者と比較したり、外界の状況によって『とても良い』であったり、『良くない』と変動する」自尊感情。

 

よく海外と比べて日本人は自尊感情が低いと言われるが、アメリカでは「今、ここ」を見つめるのに対して、日本には「反省」の文化があり、そもそも、現在がダメでも未来に良くなる自分も含んで自尊感情の上がり下りがあるため、一概に「まあ良い」「とても良い」で測れるものでもないとある。

参照:『自尊感情の心理学: 理解を深める「取扱説明書」

 

そもそも「まあ良い」は、環境(外界)の働きかけで変えうるのかが気になる。

 

如何なる状況においても「まあ良い」って危険だなあと思う。

 

端的には、「まあ良い」と思うことは、自分の「快」次第だし、「まあ良くない」とするかは、他者の「快」次第ということになる。

 

「まあ良い」は、信仰。

基本的自尊感情がメガ高いとして、

  • 旅行したいけどできない「まあ良い」
  • バックが欲しいけど手に入らない「まあ良い」
  • 遅刻したくないけど遅刻する「まあ良い?」
  • 人を傷つけたくないけど人を傷つける「まあ良い?」
  • 虐待を受けている「まあ良くないだろ!?」
  • 生きたいけど生きない「まあ良くないだろ?!」

 「まあ良い」の自尊感情と、生きづらさは相関しているのだろうか。

「8千万円くらい横領した」 藤沢市元職員|カナロコ|神奈川新聞ニュース

 

それでも「社会に適応しているならいいんじゃね?」という考えもある(アドラーもそう言っているなあ)。

 

整理すると、

  • 「まあ良くない」を「まあ良い」にしてしまう大きな問題
  • 「まあ良い」を「まあ良くない」とする問題につながるかもしれない問題

があると考える。

 

だから、「ありのまま」をまあ良いっていう「放任」でもなく、「ありのまま」を決して許さないような「強い介入」でもなく。

 

この辺りと「個人的な快・不快」との関連が気になる。

 

結局「私は真人間の価値観です。だから従いなさい」になってしまいそう。

 

そうして、どこもかしこも「まあ良い」VS.「まあ良くない」がぶつかっている。

 

ただ、気になったのは、如何なる状態も「まあ良い」では、最後には根拠のない自信のような感じに、「信仰」になってしまうと思った。

 

どんな状態の「私」になっても、「まあ良い」、なんとかなる。大丈夫。

それは怖い。目に見えないものを信じきっているだけだ。信仰。

 

まあ、これは、ある事柄を「まあ良くない」とする方も同じか。

 

何を信仰しているかの価値観の差か、なにもかも。

 

仮に「まあ良い」状態を幸福の4因子もつなげてみる。

 

幸福の4因子は、

  • やってみよう
  • ありがとう
  • なんとかなる
  • あなたらしく

 

このうち、「ありがとう」が他者の評価が強くいるなあと思う。

ここが欠けている「やってみよう」「なんとかなる」「あなたらしく」の「まあ良い」は、どこか破滅的な可能性があるというところが面白い。

 

そうなると、その状態で「感謝される場所(環境)」に自分を移せってだけの話なのだろうなあ。

 

自分は何を得たいのか。なんの提供者か。

 

時代に合わせて?

お金?人間関係?

幸福な長生き?

社会正義?

 

私は、そのどれよりも現段階では、社会正義と思っている。

昨日、どう思われようが、学校のグランドデザインに「インクルーシブ」の言葉を入れることについて意見してみた。

置きにいかない自分が好ましい(あ、ありがとう気にしてねーじゃん)。

 

そして、最寄駅に着く。

猛烈にホームに沸く人、はじめてってくらいの満員電車に乗った。人身事故。

 

駅員さんが、遅延証明書を
「大変申し訳ございませんでした。」
と言いながら配る。

 

車内では
「ご不便をご迷惑をおかけします。」
のアナウンス。

 

痛がる人のいる車内、足を踏まれる人のいる車内、謝る人のいる車内、降りられなくて諦める人のいる車内、スマホをいじる人が0になる車内。

 

誰のための、何のための言葉だろうか。

 

亡くなった方の言葉なのだろうか。

 

「大変申し訳ございません"でした"」

「ご不便をご迷惑をお掛けしま"した"」

私は、両方とも、私たちから亡くなった方への言葉じゃないだろうか。

 

その結果が死。

 

日本人は、経済面・人間関係面と自尊感情の相関があるという(どこの国でもないってのが面白い)。

亡くなった方を「まあ良い」と経済面でも、人間関係の面でも生かせなかった結果と考えてしまった。

 

 「まあ良くない」が生む結果。誰が誰を「そのままでは存在してはならない」としているか。

 

いつか、インフラが整ったら終わりが来るのだと思うことにしているけど。

 

人一人の命が消えて起こる電車内やその他諸々の場所で起こるすべての感情がその人の感情のすべてだったのではないか、と考えてみる。

 

正常な判断が出来なかっただけ。

事故。

なのかもしれない。

 

ニュースにもなってる。

 

限界まで辛い、虚しい、どうすることもできない。

 

せめて、その人生や行為を否定しない自分でいることにする。

 

否定しなければならないのは、そこにたどり着けないもっともっともーっと遠くの手前の方にいる自分なはず。

 

少なくとも亡くなった方の問題ではないと思う。

 

私は

  • 「まあ良いもの」を「まあ良くないもの」とする人
  • 「まあ良くないもの」を「まあ良いもの」とする人

が気になっているみたいだ。

 

それすら主観から抜け出られないわけだけど。

ただの天邪鬼か。自分の正義で誰かを傷つけないようにしつつ……。

大さじと小さじの間の気持ちいいところを突いてゆく

JET CO.

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