かならず幸せになれるいきもの

幸せな子ども時代を過ごす子どもを増殖させるための哲学と甘い毒。(旧:それでも幸せな人はいるから)

たい

ひたすら書類をpdf化する「ハピペン」です。いっそ捨てちまえばいいのに。時間の浪費アホだなあ。

引き続き、パートナーが風邪というのもあって、家の周辺にいます。

 

これが大事だよね。って話。

 

誰とも会わない土日というのがとても久しぶりで、たった2日自分しかいない日常過ごすだけで、

「ああ自分っていてもいなくてもいいんだよなあ」

「ああ自分って必要とされてないんだよなあ」

という思考が頭をよぎり始めるからダサい。

 

12年前と何も変わってねーんじゃねーかてめーの頭はよお。とげんなり。

そういう思考パターンに気づける楽しさはある。

でも、結局、淋しいから、無条件に人に会えてたくさん話しかけらる先生をやってんじゃないかと苦しくもなった。

 

ちょっとずついろんなダメージがあって、悲観的になっているのだけれど。

そのうちの一つが「特別支援教育士」で、これについて学び始めるのに、LD学会に入る必要がある。

そのLD学会に入るのには、正会員の推薦者が必要で、LD学会の知り合いがいないと難しいってことだった。

とてもmixiみたいな。

なので、こういうところで、吐き出し、誰か声かけてくんないかなーなんて依存的に振舞ってみる。

 

そうして、2018年度に向けて用意しようとした学びがいろいろ頓挫し、「来年度何与えろっちゅーねーん!」とスーパーで牛乳を買って、帰りながら思った。

 

でも、いいじゃん!今日、サンマルクカフェで店員さんが手に触れながらおつり渡してくれたし!

と、そこまで承認に飢えているわけでもないので、そういうことではない。

 

2日思いっきりoffで空くとそういう思考に傾く感じが面白いってのが今回の収穫で、実際は、来週は泊まりで予定が入っているし、その次の週はもっとひどく予定が入っている。平日に隙がない。ただの私用だけど。

 

それにしても、こうした感覚は最近なかったので「よっ!久しぶり、これまで何やってたんだい」感がある。もう一人の陽気な自分からの。来たなって思った。

 

そうして、空っぽになったまま、とぼとぼ歩く。

駐輪場の角を曲がったころに大切な(かもしれない)ことを思いだした。

 

「オレ、子どもと遊びたいんだよね」

 

そうそう。そもそも、それで幼稚園の先生になろうとした。

専門学校に入るときの面接でもそう言ってる。

 

教えるとか、指導するとか、身につけさせるとかそういうんじゃなくて、本当は遊びたい。

 

ただ、それは実際におにごっこしてたーーーい!とかってことではなくて、子どもと気兼ねなく共に過ごしていたいってことである。その理由はってところまではいきにくいのだけれど、ちらっと浮かんだのは、自分が大人とあまり遊べなくって、小さい頃大人ってちょっと怖いって思ってたから。

だから、安心できる大人がいて子どもが笑顔でいられると、幸せなんじゃないかなって思う。そんな人が学校にいたら子どもって学校楽しめるんじゃない?生きる喜び感じるんじゃない?捗るんじゃない?って感じ。

 

【子どもと遊ぶように授業がしたい】この域に行けたら楽しそうだなあ。

そういう授業をする先生がいるように思う。ちょっとイメージが低学年っぽくなっちゃうけど、子どもに合わせて自分がそういう風に思える授業をやって、子どもも伸ばせるようになりたい。

楽しめる授業ね。

 

本を見ていたら、林先生もそういう表現をしている箇所があって驚いた。

授業が「すべての子どもが、その能力に応じてひとしく学ぶ」場になれば、すなわち授業のなかで一人一人の子どもがそれぞれに問題をつきつけられて、自分をかけてそれと取り組むことをはじめれば、グランドで跳ねたり、さけんだりするときとおなじく、自分が自分の主人公となって活動をはじめる。

だから、授業は楽しい、遊んでいるような時間になる

『運命としての学校』より

 理想論かもしれないけれど、大切にしたい。

 

最終的に、今日の中では言語化して、着地したようで、いくらか気持ちが楽になった。

 

やっぱりね、何にもなくなって残る”たい”が大事だよ。”たい”がね。もうお頭付きで。

「へい!お頭!」ってなもんですよ。

そう、我らが頭領、出番です。

ありがとう。

子どもを生き生きさせに、いざ!出陣ってわけなのさ!!