かならず幸せになれるいきもの

特別支援×ブリーフセラピー×アドラー心理学

家族ってなんだっけ(旧:生きるって楽しいじゃん)

 

 家族ってなんだっけ。

【はじめに】
 「私が本当に傷ついている時に、あなたたちが助けてくれるわけないじゃないですか」
(『毒になる親』スーザン・フォワード P100より)

毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)

毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)

 


 これは、家族に傷つけられた者。それにもかかわらず、その家族を守ろうとする者から発せられた言葉だ。

 私たちは、良い意味でも、悪い意味でも、家族というしがらみを持って生きる。
たとえ、会ったことなくても、また、相性が最悪だったとしても、何かしらの形で、そのしがらみは必ず存在する。

 なぜだろうか。遺伝子情報としてそうとしか言いようがないぐらい、自分のルーツとどうしても切り離せないのか、とにかくどんな人間にも家族というしがらみがある。

 それほど、どうしても切っても切れないほど、大切な存在なのだけれど、それでも、その「家族にひどく困らされている人生」を生きている人もいて、「家族にひどく困らされている人生」を生きている状態は、健全ではないだろう。
 たとえば、ここからいなくなりたい気持ちや、相手をいなくさせたい気持ちになるほど。泣きたくなるほどの我慢や、実際に泣いてしまうほどの傷を受けるようなことが巻き起こっている家族は少し偏りのある家族だと思う。

 家族ってなんだっけでは、そこから救われるための希望や兆しを示せたらと思う。

【親権と人権】
 特に子どもと親について話していくけれど、一番はじめにネタバレをしてしまうと、言いたい要点は、子どもと親がぶつかる問題のほとんどは、「親権VS.人権」ってことだ。
 少し具体的にすると「子どもが幸せを得られるように育てようとする考えVS.自分自身の幸せを自分なりに追求しようとすること」の争いである。

 親は親なりに子どもの幸せを考えて生きる(そうでない場合、無条件的に健全とは言えないだろう)。ただ、その経験則や助言や気持ちが、そっくりそのまま子どもの幸せにつながるということは多くはないと思うし、稀である。
 また、「親VS.子ども」が「人権VS.人権」になっている場合はより注意が必要である。力関係から即子どもが不利になることが少なくないからだ。親の欲求のために、子どもが虐げられることは、あってはならないことだ。

 そして、温かくて居心地の良い家族なら日々を謳歌しながらやりくりしていけばいいが、死ぬほど嫌な家族だったとしても、半ば強制的に付き合うしかないのが家族であり、どうしたって全く無にできない関係、しがらみがあるのが家族だ。

 それでも、この「家族という仕組み」を前向きに捉えたいと思う。誰にでも親は存在していて、そうでなければ私たちは生まれることができなくて、そこにどんな感情があって生まれようが、「生まれた者勝ち」なのが「この世なのだ」と思うから、そこは前向きに捉えたい。
 この世にない命は、この世に存在しないからだ。
 今、ここに、存在するからには、「そこにいるべき正しさ」、そして「価値」が絶対的にある。

 そして、少し話したいのは、「親VS.子どもの」子ども側の「自分自身の幸せを自分なりに追求しようとすること」についてだ。
 これは、細かく追及しようとすれば、人権について追及するのとほぼ同じことだから、ここで追求しきることはできないと思っている……
 それでも、言いたいのは、「子どもは自分の気持ちを殺し過ぎないで生を謳歌していい」ってことだ。
どういうことかっていうと、親が変だと思ったなら、虐待や自分のされたこと、置かれた状況の異変さに気づいて「自分自身の幸せを自分なりに追求しようとすること」を目指そうとする、目指していいってことを心に留めてほしいって話がしたいんだ。

【虐待について】

少し、虐待という言葉について見てみる。
 辞書に[虐待]は、
 「むごい扱いをすること」

とある。

 [むごい(惨い/酷い)]は、
 「見るにたえないほど痛ましい。残酷である。」
 「思いやりがない。無慈悲である。」
 (思いやりがないってのは、簡単に言うと相手の立場に立っていないってことだ)

 「厚生労働省」の児童虐待の定義はこちら

厚生労働省ホームページへ

 トータル、虐待を一言で言うと「自分の生命が危ぶまれること」だ。要は、死にそうになったり、死にたくなったりするってことだ。そして「やっぱり、そんな家族は"変"だと思ってほしい。」
 
 注意したいのは、単純明快に「死にたくなりさえすれば=(イコール)この家族は悪い」ってわけではないのだけれど(大けがをしたり、死にそうになったら「悪い」は決定的だ)、判断基準の一つには必要だと思う。

 もし、不健全な家族だと感じるなら、自分の家族という超近距離にいる究極の他人を客観的に捉えて、「家族の言動や行動に冷静に応じられるようになることや、対処できるようになること」は、自分が自分を生きていく上で絶対に必要なかかせない知恵になる。
 なぜなら、「変だ」と感じるべき家族を「変ではない」と捉えて、身近な大人を盲目的に信じて、その大人に自らの人生を翻弄されてしまっては、本当の自分らしい自分、もとい人間本来的な生である「自由な人間らしい生」を全うできないからだ。

 そんなことを言うと「でも、たった一人の家族なんです」って言うかもしれない。

 そういう考えもあっていい、冒頭のセリフはこの感覚に近いところから出てきたものだろう。それでも、「"盲目的に従って"翻弄されさえしなければいい」。
 いつだって、人生の中でどう舵を切るかは、自身の目で捉えきるしかなくて、最終的な選択権は本人に委ねられる
 それでも、子どもが未成熟なうちは、その選択肢が見つけられるようにしたり、選択肢があることを教えたり、選択肢が見つけられないうちは手助けすることが、後世を導く大人の役割としてあるだろう。(人間本来的に未成熟だというステージはないのだけれど、いろいろとルールの多いこの世界では、その世界に適応するための振る舞いやコツがいくつかあり、それを知りえないうち、選択できないうちのことを未成熟と捉えた)

 ただ、言っておきたいのは、大前提として「どんな生だって祝福されるべき生」なのは間違いない。自らが心底「自由な人間らしい生」と捉えて生きられるなら、その生にリスペクトだ。

【家族について考える前に】
 そして、ここからは、
 著:スーザン・フォワード 『毒になる親』
 著:団 史郎 『不登校の解法~家族システムとは何か~』
 これらの本から言葉をもらいながら話していこうと思う(最初にも使ったけど)。

 家族の変さに気づくための考え方というと、心構えが邪悪な感じがするけれど、「家族」っていう他人だけれども「他人とは何かどこか違う人間関係」を、なるだけフラットな客観的な目で見つめて理解できるようになることを、促したいと思いながら進めていく。
 どうしてそんなことをするかと言えば、そもそもは、やっぱり問題のない家族なんて存在しないし、その家族の問題に気づいて応じることができれば、人生って案外楽しいからだ。
 また、自分の家族を変だと思って過ごすのは、不健康な感じがするかもしれない。けれど、繰り返しになるが、本当は苦しいのに、うちの家族は本当は客観的には少し偏りがあるのに、それを半ば無理矢理に普通と思い込んで、自分の正直な率直な感情に気づかないフリをして、自分を誤魔化して生きる方が不健康だ。

 それに、私は「家族とは、一番大切にしなければならない他人」だと思っている。
 家族をとにかく敵に回したいというのでは決してない。
 むしろ、家族を客観的に見つめ、適切な距離感で応じることで、家族はより大切にできるし、家族関係はより深まると考えている。そうすることで、自身もよりよい人生を生きることができる。自分のルーツとの関係が安定することは、人生に落ち着きをもたらす。だから、こんな話がしたい。
 そして「一番大切にしなければならない"他人"」という考えは結構大事だ。
 「大切にしなければならない」としても、血がつながっていようが違う個体であり、家族とは、あくまでも「他人」なのだということをよく理解しておいてほしい(たとえば、家族なんだから言わなくたって分かるでしょみたいなことはないんだよってことが言いたい)。
 
 ちなみに、大切って何かは、大切ってなんだっけに書いた。そこでは、大切っていうのは、「存在を認める、優先順位を上げる、よりよく生きるために必要なものを与えること」と書いた。
 ここで、大きく注意しなければならないのは、この辺に示している「大切にする」ってことは、相手の要望に「ありのままに従う」ってことではないってことだ。
 だから、「よりよく生きるために必要なものを与えること」というのが含まっている。ここにある「よりよい生」っていうのが、下でも出てくるけれど、「自由な人間らしい生」だとしたなら、親が子の人生を振り回すような生は(誰かが誰かを従えて振り回すような生は)、人間らしい生とは言えない。その人間らしくない生を私たちが従うことで、私たちが与えてしまうことは、その親の生を"大切にしている"とは言えない(よりよく生きるために"必要でないものを与えている")ので、無条件的に親に従って生きている場合には、親を大切にできていない可能性があるってわけだ(無理矢理感のある解釈だけれど)。

 だから、ある部分では親密でひいきした関係だっていいし、情で動いたっていいけれど、またある部分では冷静に見つめなけばならない部分はある。だって、実際に"家族で苦しみ、家族に苦しめられている人々"がいくらでもいるんだもの。

 また、思えば、そもそも「家族を他人として客観的に見つめていい」っていう考え自体に、衝撃が走るところもあるのかもしれない。
 ただ、よくよく考えれば、他人だし、同じ人間なのだから、冷静に見たっていいって納得できるといい。

【家族について】
 というわけで、まず、家族について二つの本に書かれている言葉を紹介する。
「家族というのは―中略―一人ひとりのメンバーが複雑に結びつき、それぞれがお互いに根本的な、しかし表面的にはよくわからない影響を及ぼしあう集まり」
「子供にとっては、この"家族というシステム"が現実世界のすべてである。」(毒になる親 P175)

「家族はいろいろなことを決めなければならない小集団なのです。」(不登校の解法 P14)

 これらの言葉は家族についての気づきにくかったり、つい忘れがちだったりする大切な感覚を知らせてくれる重要な言葉である。

 どんなに客観的に良い家族であれ、悪い家族であれ、子ども(または、心が自立しきっていない者)にとっては、家族(生みの親ないし保護者)が現実世界のすべて。現実で生活する上での思考のフィルターのすべてになってしまうということ。

 また、どんなに頭のいい判断力のある父親がいようが、聡明ですべての出来事に最善策を導き出せる母親がいようが、家族とはいろいろなことを決める小集団であるなら、その最終決定権が子どもにはないにしても、家族の中で誰でも自由に意見を述べたり、伝えたりできることが望ましい。

 そして、こうした感覚の中、複数の人間の気持ちや出来事などが複雑に絡み合ってネットワークを作っているものが家族なのだそう。

 このことを周囲にいる大人が忘れてしまって、独善に走ったりすると、子どもや力の弱い者は周囲の強者に屈するしかなくなるわけだ。

 そうした場合に大きな問題となるのは、家族が現実世界のすべてであったなら、そこで起こっていることが、実際には、自身の人生にとって大きな苦しみやあるべきではない傷を負う事態だったとしても、「おかしい」と気づけないこと。

 小集団だという認識がなく、その複雑さを軽視し、そのネットワークの中で弱い者に権限がなければ、「もしかして問題があるのかも」という気づきも黙殺されるというか、黙殺するしかないということだ。

 要は、言ってしまうけれど、虐待や虐待に近いことがあっても、子どもはそこまで自分の人生を悲観できないから自らの家族を普通だと捉えようとするし、親がそう言うなら従うしかないと捉えるしかない子どもがいるってことだ。

 けれど、この言葉(少し繰り返しになるけれど)
「家族の中に『問題』がない、などという家庭はほんとうに少ないのではないかと思う」
(父親の力 母親の力「イエ」を出て「家」に帰る P3)
 という言葉はその通りで、別に家庭に問題があることは珍しいことではないし、それを疎んじる必要はないだろう。

 大小の違いはあるもののどの家庭にも一つや二つ問題があるだろう。
 もの凄く近い距離感で決まった人間が毎日顔を合わせて生活していれば、問題がない方がおかしいくらいなのだ。

 そうなると、「問題があることは、問題ではなく」、その問題を問題と捉えられるか、それを解決できるかが問題になってくる。
 
【家族というシステムの外】
 ここまでをまとめると、家族というシステムが、家族に起こる問題を心地よく改善できるシステムとして働いているかが、家族が健康に心地よい場であるかどうかの鍵になるってことだ。

 ところで、具体的なデータが見つからなくって申し訳ないのだが、フランスでは、子どもを育てる際の「うちはうち、よそはよそ」というのを強くしすぎないことで、親のプレッシャーをなくして、どの子どもも国の大切な宝というような視点で保護者をサポートし、出生率の増加や虐待の予防に効果があったと言われている。

(参考:なぜフランスは少子化を克服できたのか。その理由は、日本とは全く違う保育政策だった。 | ハフポスト


 この考えに私は「家庭で起こることは、何も家庭のせいだけではないですよ」という温かみを感じた。家庭で起こったことは、家庭が原因で、家庭で解決しなければならないという感覚は、たくさんの人々の首を絞めているように思う。
 日本にはそういう文化がある部分があるので仕方ないが、もう少し視野を広げたら生きやすいと思う。よく言われる地域の教育力の低下だとか、人間関係の希薄化が言われる現代には必要な感覚だとも思う。
 
 何が言いたいかというと、家族がシステムとして成り立っていないなら、「第三者を入れろ」ってことだ。

 個人的には、「家庭の問題を家庭の中で解決できる家庭なんて存在しない」と思っている。そもそもこれまでもそんな家庭はなかったのかもしれない。「問題のある家庭を問題のない風に仕立てる家庭」はあったとしても。

 現代であれば、より第三者の力は必要だと思う。その役目を一つメディアが受け持っているとも思うのだけど、なんでかその情報は、入ってくるのがスムーズな分、抜けるのも早い。
 求められるのは、実時間的なコミュニケーションだ。足を運んだり、場を変えたり、目の前の人から声を聞いたりするかかわりによって、時間と空間と事柄を共有し、直接自分に言葉を掛けてもらい、人生に触れてもらい安心できるようなコミュニケーションだ。
 一般に当てはまるような助言を、自身の家族に当てはめて考えてそのときの回答を導くことも不可能ではないが、テレビや本やラジオやネットで受け身に得た情報よりも、自身の置かれた実態を伝え、それに対して言葉をもらう方が、なぜだか安心や希望を得られる。

 それは「続・人間ってなんだっけ」で言ったような、そこにかけられる時間が、つながりを強く感じさせ、人間としての生きる喜びが得られるからだろう。

 どうして、そんな急な感じに「第三者」を入れろってことを言うかっていうと、家族の中だけで家族の危うさに気づくことは至難の業だからだ。

 人間っていうのは面白いもので、人間は自分の育った環境の価値観の影響を大きく受ける、基本的にはそこでの育ちが基盤になって物事を判断するようになる。
 具体的に認識できないにしても、思考にパターンがあり、問題と向き合わない可能性があるのだ。
 どういうことかというと、家族と過ごしている中での慣れた生活体型から「抜けよう」って発想がそもそも生まれてこないってことだ。

 「だったら、別に自分が不幸なことにも気づかないし、それで幸せなんだからいいじゃない」って思うかもしれない。けれど、その幸せな感覚っていうのは主観の幸せでしかない場合がある。

 問題は、その家族にある価値観で生きることで、周囲の不幸を増やす可能性があるってことだ。
 もちろん、そんなこと言ったら、どの家庭でもその可能性は秘めているし、あの家庭だけはよくないってことは言えない。それは重々承知の上で、ただ、いくつかの家族には、どうしても、周りに嫌な感じを与える家族があるってことだ。
 虐待や虐待に近いことがある場合、それを受けている子どもは、なんかしらの反応を起こし、外界に影響を及ぼす。そのフラストレーションは身体に留めるか、別の場所に発散するしかないからだ。
 もう一度言うけれど、家族の中にいて受ける嫌な感じというのは、自分自身で気づきにくい。なんとなく感知したとしても、自分で気づかないようにセーブをかけることも少なくない。ふとしたひらめきのような、その時のピュアな感覚は大事だ。「私は、今、嫌な気持ちがする」みたいな感覚をいけないものと捉えないで、そう思ってもいいものとして知っておいてほしい。
 そんな風にもしかしたら、うちの家族はよくないのかもしれないなんて目をもつこと自体に嫌悪感が出てくるところもあると思うけれど、特に問題がなければ、その感情はあっさり通りすぎるだけだろうから、そんなに気にしなくていいところだと思う。
 だって、実際に、少しも違和感がなければ、「うんうん、うちの家族は素敵よ」で終わりだからだ。

 この辺りで、伝えたかったおおまかな概要は伝えた。

【大切な"他人"である家族と自分について】
 家族とどのような距離感でいるかっていうのは、選べるってことを伝えたかった。
 どの距離でもいても、許されるほど、そこは、自由だよってことを。
 そうした自由の中で選び抜く関係が温かいものであれば、それは、とても素敵なことだと思う。
 反対に、そうするとあまり温かく接することはできないと思っても、便宜上というか建前というか、上手な距離感で付き合うのもありだ。
 「家族だから」っていうことが、やたら余計な、マイナスのようなしがらみだったら、それは、無理して背負わなくてもいいよってことだ。もちろん、執拗に追い回して解決を試みることも、また人生なわけだけど、そのエネルギーの消耗は大きい。

 アドバイスとしては、家族の問題は家族の問題として、人生の主なレールとは別の横道を走らせておいて、長い時間をかけて解決してもいいものだと思う。固執して向き合おうとすると、結局それだけ、「家族」っていうものに人生を翻弄されて、自身の人生の本筋を見失うことがあるからだ。
 それよりも、それはそれとしておいて、自分が輝きを感じるところへ向かおうと、人生の駒を進めてもいいってことだ。
 
 「ある分野で表出した問題は、その分野の知識だけでは解決できないことが多い」なんていうことがあるように、家族とだけ向き合っていれば、家族の問題が解決できるってわけではないのだ。

 内側からは、内側の出来事が大事(おおごと)に見えたり、実際よりも大きなことに見えたりすることがある。
 だから、外側からあなたを見つけ出し、出来事の全体像を見つめ、手を差し伸べてくれるような「第三者」が必要なのだ。迷路に入り込んでいる間は出口が見えないけれど、上空から見ればどこにいるか、入口がどこで、出口がどこか分かるようなイメージだ。

 で、結局、全部ひっくるめて何が言いたいかっていうと。

 自分っていう個体の情報の一つに、家族っていうのはあるのかもしれない。けれど、言ってしまえば、自分っていうのはその情報と環境の掛け合わせな部分があるから、あなたが生きているってことは、どんな家族だったとしても、「今、ここにいる自分」から、何を何へつなぎたいかにすぎないって部分があると思う。

 外側の世界を知れば、いろいろな世界や、いろいろな言葉を知ると思う。
 それだけ、家族についてもいろいろな見方を知ることができるってことだ。何度も言うように、内側の家族やなんかに上手に付き合うには、人は結局自分の感覚だけで物事を捉えようとするから、第三者や、外界のサンプリングが必要なのだ。
 
 「第三者」っていうのが、重く感じる場合、本なんかに頼ってもいいと思う。私が参考にした本を読んでも、ここで言いたいことが深まると思う。

 ただ、私たちがどんな捉え方をしようと、今だって実際には、淋しい状況にある人はいるのだと思う。
 冒頭の言葉が真実だと思う。助けてほしいときに助けてって言えなくて苦しんでいる人がいるのが真実だと思う。救いたいし、救われてほしい。
 子どもをコントロールしようとする親は確かにいるのだ。ゲームの時間一つとったって争っている親子はいるだろう。「子どもがやりたいと思うことでも自分が子どもに望むことと一致しなければ意味がない」と捉える親はいくらでもいるだろう。

 ただね。それも、上に書いたように、ある部分においては、「子どもが幸せを得られるように育てようとする考え
」なんだ。
 けど、どうしても、親と子は別個体だから、幸せに食い違いが出る(その辺のことは、幸せってなんだっけに書いた)。
 そのバランスを取るための発言権がある程度対等にあること、そうした集団が理想的な家族だと思う。たとえば、日曜日にかかせないような、日本人がなぜか求めてしまう、あの家族たちのような、まるちゃんやカツオのような、子が親にも意見を言えるような風通しのある家族だ。

【家族の外の枠組み】
 また、発言権っていう枠組みだけではなく、そもそもの「誰しもの人生の同等さや、対等と捉えているような感覚」は世界中の幸せにとって重要な考えだ。
 権利があるから偉そうにしたっていいってことじゃなくて、誰もが誰もに「いいよ」って思えるような世界にもっていけたらいいねって話ね。

 あと、もし、家族に固執してしまうポイントとしては、自分が大切にされたいってのもあるだろうね。だから、大切にし続けようとしてしまうんだろうね。
 生んでくれた、育ててくれた家族から、自分なりの欲しい言葉で、「生きていい許可」のような、認めてもらうってことが欲しいんだと思う。
 
 でも、まぁ、「そんな許可ってなくてもいいんだよ」ってのを伝えたくて、「忘れてしまった当たり前のことたち」を書いているところもあるのだけど。

 生きるのに許可はいらないし、そもそも、生きている時点で、私たちは許可はもらっているようなもんなのだ。
 その許可は、実際の実際は家族から降りるものではないし、自分でそうだと思い込んで決めてしまうところはあるとしても、地球規模的には、生まれていいから生まれているとしか言いようがないし、その辺を人間がコントロールしてると思うからごちゃごちゃになるよね。

 先にも言ったように、家族っていう路線も保っていていい。けれど、それで上手くいかない場合は、大きな視点、それこそ外側の、地球規模だっていいと、私は思ってる。

 そんな風に許可の範囲や捉え方を変えることで、もう少し生きやすくなると思うんだ。
 
 もしかすると、いや、家族っていう枠で生きられなきゃ、地球だって無理でしょって感じもあるかもしれない。
 それは、上で書いたこの「子供にとっては、この"家族というシステム"が現実世界のすべてである」って言葉の通りで、この辺は"世界ってなんだっけ"で書けるかもしれない。
 結局、自分をどこに置くかで、すべての見方は変わってしまうわけだ。
 
 うーんと、そう、家族を作れば、そっちが家族になることもあるってね。
 それくらい、もやっとした、曖昧なところに生きているわけだ。
 だから、大きな視野で、生きられたらいいと思う。

 家族ってなんだっけ。

 それは、私たちが最初にもらった枠組みに過ぎない。
 最初のだから恋しいってのはあるけれど。
 私たちは、前(親)や横(兄弟)でなく、いつだって、もうもらったものを後につないだっていいってことだ。
 家族っていう枠組みではなく、あなたっていう枠組みを通して。