かならず幸せになれるいきもの

特別支援×ブリーフセラピー×アドラー心理学

選択ってなんだっけ(旧:生きるって楽しいじゃん)

 

選択ってなんだっけ

 

この世界では、どんな生も肯定される。

目を凝らせば、あなたの生き方を肯定してくれる人が必ずいる。
あなたの生が肯定されるための配役、盤面、演出はすでに用意されているのだ。
あとは、あなたが、その「舞台」に行くだけでいい。

ところで、どんな生も肯定される、と言うと、「人生とは、なんでもあり」と思うかもしれない。

これは、言葉の意味としては間違っていない。
ただ、人間として生きていく、と考えると「なんでも」は、ありじゃない。

注意したいのは、どんな生もありということは、どの生の価値も同じに肯定されるということだ。
つまり、自分らしい、オリジナルの生の価値を考えるとしたら、それは、自身の選択によって左右されるということだ。

繰り返すが、この世界では、非人間的な生も、肯定される。
人間が肯定し許すかは、分からないが、世界の視点では肯定される。

当たり前な原理として、肯定されなければ、その出来事は起きようがないからだ。
これもまた、当たりまえな思考の流れとして、その出来事を「起こさない」という出来事も同じ価値で肯定される。

私たちは、戦争をしても、大量虐殺をしても、どの罪を犯しても、戦争をしなくても、大量虐殺をしなくても、どの罪を犯さなくても、そのすべては同じ価値で肯定されるのだ。

私たちは、そのどちらをも選ぶ権利がある。

ここまできて、考えるべきことは、「本当の私の選択はどれか」ということだ。

どれを選べば、何を選べば、「その選択は本当に私の選択です」と言えるのか。

自由とは、自分らしく行動することだ、と前に書いた。

自由とは、「そのときそのときの思いつきで行動することではない」のだ。

私たちが、「自分」を掲げるときには、それが「自分かどうか」を冷静に見つめる目が必要である。

その目を持たなかったものが、誰かを、何かを「悲しませる」と思う。

世界中の悲しみには、軽はずみな自分による選択が行われたという背景があるのだ。

この軽はずみの尺度は、「どれくらい時間をかければよい」というものではない。

誰も何も悲しまない、または、少しでも多く誰も何も悲しまない「正当な正答」を捻り出す必要がある。

誰をも許容し、寛容し、包括する選択を、生み出す。これが、人間の人間らしい営み、活動だろう。

「正当な正答」に辿り着くには、延々と時間がかかる。
人間の行動に最善の一手はないのだ。

ただ、「悲しませない手」を打つには一つのヒントがある。
これは、「正当な正答」に辿り着くのと反対に、「一瞬の判断」では、「正当な正答」は出しにくいということだ。

「いやいや、決断力って大事ですよ」って言う人もいるでしょう。

その通りです。「決断」すること。
この、「決断」は早くても構いません。
それでも、その「決断」にどんな心情が働いているか、時間をかけて自分を見つめ、とっさのときにも、誰かや何かを「悲しませない選択」ができるようになっていかなければならないという話だ。

もし、「選択」に一貫性を持てたとすれば(自分の中に冷静で安定した行動規範や優先順位があれば)、その一つの「選択」には、これまで生きた分の時間の精査がかかることになる。

「その選択」は、いつも「自分の自分らしい選択になりうる」ってことだ。

ただ、それでも人間には、「魔が差す」ことがある。

自分の心理状態、健康状態も見つめながら、選択する自分の状態ごとに注意が必要になる。

たとえば、大きな選択は「晴れている日にする」とか「花をきれいと思える余裕のあるときにする」とかだ。

もう少し大事なことを話すけど。

それで、結局「人間らしい」とか「自分らしい」ってことがどんなことなのかって話なんだけど。

これも一つの当たりまえの原理として掲げたいんだけど、一つ聞きたい。

「ある物事と長く付き合うほど、その物事への理解は深まるだろうか」

私は、答えはYESだと思う。

長く携わるほど、理解は深まる。

それは「人間」も同じではないだろうか。

「人間」と長く付き合えば付き合うほど「人間」についての理解が深まる。
反対に、それでもやっぱり分からないことだらけだって、深みもあると思う。

けれど、年をとればとるほど、長く生きれば生きるほど。

「人間は生きるに値する」と思うのではないだろうか。

生きていて良い人間しかいない。「誰も悲しませる必要はない」という考えが強くなっていくのではないだろうか。

少しでも早く気づけるといいのだけど、「私たちの選ぶべき生」が「誰かを悲しませない方がいいんだ」ってことに。

長生きした末に、人類は皆即刻死ぬべきだ!なんて叫ぶようになったら、今頃こんなに人類は増えていないと思うのだ。

きっと、生きれば生きるほど感じるのは、生への執着なのだと思う。
そして、年を取れば取るほど、他の生へも執着するのだと思う。

「みんなに生きてほしい」とか、そんなようなことを思うのだと思う。

私たちは、その答えを言葉だけでもいいから知って、未来で後悔しすぎないために、選択するときの材料にしたらいいと思う。

「だれかを殺しちゃった。でも、やっぱり殺さなきゃよかった。」
これほど、しょうもない、反省ってないと思う。
終わったら、終わりだ。戻らない。

「なぜ、あのとき、ちゃんと『選択』しなかったのか」

「なぜ」

たぶん、知らなかっただけだ。
人間がいいものだって。美しいって。

そして「自分が選んでいる」ということも。
そして「自分がそれを選ばない」ということを「選べる」ということも。

私たちは、今も、この後もずっとずっと選ばなければならない。
それは「誰かのために」だ。そうすれば「悲しみは減る」。

もちろん「選べないとき」はある。それでも、何も残念がる必要はない。

すべての、生は肯定されているから。

今、これから、変わっていけばいいのだ。

すべての、生は肯定されているという安心を知ってほしい。

だから、ゆっくり選んでいいってことだ。

本当は、生まれたときにこういう案内文があったらよかったんだけど。

ようこそ、地球へ。
あなたは、ここまで、選んで来ました。
地球は、生まれることを選べたあなたを祝福いたします。
地球には、みんな幸せを体験しに来ています。
ルールは、たった一つです。
「地球上の幸せがより多くなるように行動すること」
では、よい生涯を。

みたいな。自由VS.不自由があるけど。
どっちを優先しても、全体の幸せが増えればOKな気がするよね。

犠牲になれって話じゃないけれど。そんなのは考え方次第だし。

言いたいのは、「間違った選択の価値」それって誰に教わったんだよ。ってことだ。
それって「自分なの?」って。
「魔が差してんじゃねぇよ」って。
もともとそんな人間だったのかよって。
誰かにこの世の中はつまらないって思わされて、自分をやめちゃってんなよ、ってことが言いたい。

「人間を忘れるな」って思う。

私たちは、いつも、今も選択できる。

自分を他人に埋め尽くされて、選択してしまっていることに気づいて、変わるのかを。本当は、自分は何を選びたかったのかを思い出して、変わるのかを。
諦めないで、見捨てないで、置いていかないで、選択したらいいと思う。

「あなたが幸せにできる誰かは必ずいる」

それを、なかったことにするような「選択」をしちゃダメだと思う。

「あの人がいなくなったら、幸せになれなくなる誰かがいる」

いや、そこじゃなきゃできない経験がある。そんなことを言う人もいるかもしれない。
けど、断言できるのは、それは、そこじゃなくても経験できる経験だ。

誰かの、何かの「悲しみが少ない方」を選べって思う。

選択ってなんだっけ。
私たちは、生まれる喜びを選んだのだ。
その喜びは、こっちに来て誰かを悲しませることができるという喜びではない。
「誰かと時間を共有する喜び」に出会いに来たはずだ。

すべての選択は、そこに根差して。