かならず幸せになれるいきもの

特別支援×ブリーフセラピー×アドラー心理学

成功ってなんだっけ(旧:生きるって楽しいじゃん)

 

成功ってなんだっけ。

一つ掲げたいことは、
「僕らはどこでどうやって何を成し遂げたいのか」
ということだ。

自分のイメージと辞書的な意味に相違があると嫌なので、辞書の意味も記す。
辞書には、
・物事を目的通りに成し遂げること
・物事を成し遂げて、社会的地位や名声などを手に入れること
(良かった。成し遂げるがキーワードだった。)

もう少し整理すると、成功が私たちのたどり着きたい到達点として、
その到達したい「目的、社会的地位、名声」がなんなのかという話になる。

いくつか分かっていることを書こうと思う。

成功について考えはじめたのは、ふと自分を生きづらくする妙な感覚に気づいてからだった。

それは、
「自分は若くして上手くいくことが成功と思っていないか」
というものだ。

世の中にある成功者が書いた本(当時読んだもの)には、若い頃から云々という記述が多くあったように思う。
というか、本になる価値がある程の人間について書かれたものには、大抵ネタの一つとして幼い頃の様子が書かれていることが多い。
けれど、冷静に見れば、本になるくらいのだから、ドラマチックもしくは、共感したくなるような書かれ方がされている。
というか、何が書かれていても、すごいと思ってしまうマジックがあると思う。
興味や動機があってその人の本を手に取って読んでいるからだ。
大体、幼い頃は普通のどこにでもいるような子どもだったか、幼い頃から普通ではない何か(経験や性格)があったという内容だ。

このマジックが負け惜しみか、間違った推測かはどうでもよくて、こういう考え方ができれば想像できるところだと思うのだけれど。

誰だって、「今」の自分を、自分もしくはそれなりに多くの人間(周囲の賞賛か、商売になり得るほどの支持)が成功と思えば、その人の人生は成功になる。

多くの支持があるなら、それは本にされることが可能だと思うし、「今」成功さえすれば、過去の人生がどんな人生であっても成功の一助となり、
過去が肯定されるものになる可能性が高い。

これは「今」の強さを感じられる部分でもある。
人はいつでも「今」に引っ張られ、引きずられる。

ゆえに私たちは「今」以外にいることができない。
これは、また別の話だけれど、私たちには「今」にいる必要が大きくあり、いつも「今」と言われ認識できる場所にいる(来る)。
もし、「今」にいる必要がなければ私たちはどこにでも行けてしまう。
いついかなるどのような時代にも行けるのだ。
それくらい「今」は強く、私たちの成長だかなんだかのために、私たちの意識しないところで、私たちは「今」を選んで今日から明日へ、
次の日と呼ばれるところへ寝て目覚め、みんなで時間を共有している。
それは、すべてが自分だから全員一緒に行けるのは当然だし、人生は人生で一単位なのでぶれることなく計画通り日時は進む。
(それを常に意識して安心できるほど、意識して覚えたまま気持ちを保ってはいられないのだけどね。)

おーっと、お得意の話が逸れるが起きてしまったぜ。

また、私の大好きな、やなせたかしの成功は早い方ではない。
あのアンパンマンがアニメ化され大流行しだしたのは、70歳のころのことだ。

もちろん、それまでにいろいろ撒いた種はあるだろう。
ならば、私たちも撒ける種を撒けばいいだけだ。
何か。なんでもいいから何かをするってことだ。

そして、もう一つのポイントとして、やなせたかしは一人で生き続けたのではない。
誰かと生きることで、誰かを頼り助けられながらでも生き続けることで、
迎えられる大団円、成功と呼べるような日に辿り着くことが可能となるわけだ。

人は生き続けることさえできれば、その存在が保障されてさえいれば、
日々の中で必ず何かは起こるし、どこかには辿り着く。

さらに、生きていれば見え方や感じ方、気持ちは必ず変わる。
そのときの「今」の強さというのは本当にすごい。

成功の形は生きていく中で変化し続けるのだ。
やりたいことや見たい景色も必ず変わる。

だから、成功には生き続けることが求められるといえる。

そして、

うまく話しを戻せたらと思うのだけど。
どんな僕らは「目的、社会的地位、名声」がほしいのかということだ。

僕らはどんな「目的、社会的地位、名声」がほしいのか。
これは、人それぞれ、最大限に自由だ。

それは、目にしているものが人それぞれに違って、社会をどう捉えるか、良い悪いをどう捉えるかは、人それぞれに担っているものが違うからだ。
裕福さを手にすることこそ成功だと捉える考えもよくある。
当たり前だが、裕福さは大事な価値観である。 裕福さを良いと思える人がいなければ、大きな商業は生まれないだろう。
ただ、そこに福祉もあるから成長したと考えたいけれど。

総じて、たくさんの人に有益な考えであったから大きく成長することが可能なのだ。

得たければ得ればいい。それは周囲の支持次第だ。
周囲が支持すれば裕福さの成功に近づくことは可能になっていく。

ここからは、もう少し社会を裕福さで捉えないところ話す。

問い方を変えるけど、
「僕らはなぜここにいるのか」
そして
「どこへ向かうのか」

僕らが生まれたとき、僕らはお金持ちになって裕福になるためにと思っただろうか。
どこに生まれたのだろうか。 僕らは、生まれたいから、そして周囲は生まれてほしいから、だから生まれただけだ。
生まれたくなければ、生まれてほしくなければ、人は生まれない。

それだけで、一つ、完結している点がある。
僕らは、生まれて、存在している。
これだけで、一つ、目的は達成されているのだ。

そこからは、VS社会だ。

生きるってことは、人間をやることだ。
この人間のいる社会では、一人ですべてを完結することはできない。
かかわり、ないしつながりをやりくりしていく必要がある。

新たに出会う「誰か」や「もの」、「自分のほしいもの」との距離を詰めていく必要が出てくる。

(回りくどい言い方をして申し訳ないのだけれど、
もっと上手い言い方が思いつかなかった。)

ここまでのことを含んで言いたいことは、
まとめると、

「僕らは常に成功していて、成功から成功へ向かっている」
ということだ。

またなのだけど、人は生き続けさえすれば、必ず幸せに成功できる人間である。
私は、人は幸せには成らない生き物だと思っているのだけど、
それは、人は幸せに成り続ける生き物だからで、
人に終わりはないと考えるからなのです。

だから、そもそもの成功という到達点があると考えるのは生き辛さにつながるし、
そもそも理に適っていないような気がするのです。

私たちにあるのは、
「生発進死行き」でしかないです。
成功が到達する先は共通で死です。
死が成功の到達点というのはなんか気持ちが悪いので、
成功っていうのは途中経過にある現象なのだなと思います。

であれば、成功は、途中経過のすべて、
「あぁ、生そのものが成功なのだ」と思いました。

僕らは生きてさえいれば常に成功に辿りつく。
それは、時間軸や距離のことではなくて、存在するということです。
だから、地球はいろいろなところに移動するのでなく、一定の場所を回っているのです。
舞台の背景が変わるだけ、種類的には一つで、その繰り返しの中で存在することが成功なのです。

さらに、考えをプラスすると、存在ってことは、死んでも続けることが可能なことです。
それは、物質的な残存かもしれないし、誰かの心の中に生きることかもしれません。子どもなんて当たり前に自分が生きていた証拠です。
ただ、自分の子の中にも残りたくないって人もいると思います。
だとすれば、存在しないという存在を選んで存在しているのです。
存在することは、気づかれていることではありません。もっと内包されているものです。

誰も誰の生にもかかわらないことはできません。決して。
それくらい僕らが生まれたことは、存在が一度でも認知されたことは大きなことで、成功なのです。

そうなってくると、どれくらい生きたか、どこで生きたか、今生きているかは関係のないことなのです。
僕たちはここで大きく問われなければいけません。

「生きても死んでも人は同じ成功を得ているのではないか」ということです。
これは、大きな問いです。

生まれた僕らは、いつ死んでもいいのです。

ただ、それでも生きたいと思ってしまうのが、人生なのです。
それが、人の生のはずです。

そう思えないのは、人間や社会を捉え間違えたからです。
だからと言って社会に反逆しろというわけではないです。
その捉え間違えた人生や期間も肯定的に捉えられる必要があります。
それは生きてさえいれば可能になることです。

今まで、自ら死んで行った人たちは、捉えることができなかったのです。
あと1時間長く生きていれば捉えられたかもしれません。なのに。

死にたくなるのは自分のせいではないのです。

生きたくない世界なら死にたくなるのは当たり前です。
ただ、その世界は、本当に「自分が思う成功を理解しきった世界」ですか。
その世界の捉え方に間違いや誤算や狂いはないのかは問いたいところです。

僕らの生きているところは間違いなく「地球」で、
そこにある唯一最低限の社会的地位や名声は、そこに「生きていい」、そこに「存在を認められる」ことです。
そして到達すべき場所は、「自分の中にある思いから考えられるどこからか担ってきた心地よい存在の形」です。

私たちが死にたくなるのは、自分の思うように自分の存在を認識してもらえないからです。
そのどんな風にというのは、自分自身の中でも不確かだし、流動的でいつだって定まっているものではありません。
ときには、ラフに「あぁ、そこにいるね」だけで十分なときもありますし、厳重に「かけがえのないあなたが大切」くらいに認識してほしいときもあります。
どちらにせよ、それでも「あぁ、いるね」っていうささやかな愛はあります。

要は、あいさつです。

前に友達と「あいさつってなんだ」と話したときの結論は、「君、そこにいるね」っていう存在認識の愛で、
今、そこにあなたがいるというあなたそのものを「愛として察する行為」と決めつけました(笑)
でも、それくらいに、愛を安売りすれば、存在しやすくなる温かさもあると思うのです。

あいさつ一つ一つに愛を込める。

そんなの、きれいごとかもしれませんが。
それで世界がどうなるかは、誰にも分かりません。

また、もう一つ話は打って変わって
純粋に大切な人との生活が保障されている状態は必須になります。
マズローの欲求5段階説からですが、生理的欲求、安全欲求、社会的欲求、尊厳欲求、自己実現欲求の5つです。
このうち生理的欲求、安全欲求、社会的欲求が、年齢のステージに応じて満たされていないと死にたい度は俄然上がります。
だから、この欲求と照らし合わせて何が足りなくて生き辛さを感じるのだなと分析してみてほしいです。
それをどうすれば得られるのかというのは、また別の話になりますが、日本であれば生きる切り口はあるはずです。
報道に乗るくらいの杜撰な目に合わなければですが。

誰かを信じて周りに訴えてみてほしいです。
セーフティーネットを信じるってことです。
人間や社会を。

さぁ、思い出してほしい。

自分が生まれたとき。

どういたかった?

どう生きたかった?

ただ、生きたかった。

今だって、ただ、生きたかった。

そうに違いない。

じゃあ、なんでこんなにいろいろほしがるんだ。

そんなの、忘れちゃってたからだ。

だから、今、思い出している。

今、あなたは、私たちは選べる。

それでも、「とある成功」を目指すか、
今を成功と捉えて、次の成功へ生き続けるか。

私としては、今、自分は成功しているということを忘れないでほしい。

それでも生きられないとすれば、あなたは何かを見落としているか、忘れているにすぎない。

この世のすべての生は完全に肯定されている。
肯定されていないとすれば、それは誰かがそう「誰かが」否定しているからだ。
それは成功を誤って捉えている何者かだ。
それは、親か同年代の輩か、兄弟か、近所の人間か、先輩か、友達か、テレビの中で騒ぐ奴らか、大人か、楽しそうに笑っている奴か、うるさい奴か、誰かは分からないが、私たちは成功していないと否定してくる何者かだ。

私たちが一般に認められないことをしたり考えてしまうとすれば、それが出来上がる前になった何かがあるはずだ。
私たちは、本当は生きたかった。できれば、みんなと生きたかった。正しく生きたかった。でも出来なかった。
出来なくさせられてしまった。出来ない方を選ぶしかなかった。
でも、それは、「今」じゃない。

じゃあ、「今」どうするかだ。
私たちは「今」に引っ張られ、引きずられる。
「今」、生きていて、「今」、生きている。
これほど眩しい真実はない。

誰かはあなたを待っている。今も。必ず。

「今」生きているということは、最大限に肯定される事実である。
これは、生まれた時点で成功、地球に歓迎され存在を始めたのだ。

その存在が続くことを願う。
それが、誰かにとっての成功だから。
嫌でも、私だって、生き続ける。

成功ってなんだっけ。
それは、私たちが生まれたときのこと。