かならず幸せになれるいきもの

特別支援×ブリーフセラピー×アドラー心理学

人間らしさってなんだっけ(旧:生きるって楽しいじゃん)

 人間らしさってなんだっけ。

 人間らしさを考えたかったら、人間ではないものを考えたらいいだろうか。
 けど、それを考えると時間がいくらあっても足りない気がする。人間らしさを知るために、他の生き物とどれだけ違うかを探し出したら、こりゃたまらんってわけだ。

 さらに、人間らしさと言ってもいろいろな視点がある。たとえば、それは、仕草かもしれないし、見た目かもしれない、機能かもしれない。
 ただ、これは人間に「似ている」ってことだ。人間「みたいな」ってことだ。

「あの犬、人間みたいに首をかしげるなあ」
「あの猫、人間みたいな顔しているなあ」
「あの猿たち、人間みたいに社会をもっているなあ」

 こういうことじゃない、ってことだ。

 ここで言いたいのは、「人間が人間を見つめて、『何があれば』人間らしいと言えるか」だ。

 一つ、仮定を話す。
 たとえば、「人間が起こすすべての事象が、人間による営みなのだから、人間の起こす何もかもが人間らしい行為と言えるのではないか」

 その通りだ。何もかも、人間の感情や反応によって呼び起こされたものだ。誰かを攻撃することも、誰かを悲しませることも、すべて人間によって起こされたとすれば、それは、人間による行為であって、人間だから起こしたこと、起こせたことだ。よって人間がした行為なら何をしたって人間らしい行為となる。

 ただ、そう分かった上で、それでも、私たちが、戦い続けなければならないことは、「人間がすることだから、人間らしい。だから、人間はなんでもありです」ってことでいいのか問うことだ。

 犬の世界に、殺犬があるか分からないが、もしあったとしたら、犬は犬を犬らしくないと思うだろうか。(えっ、あの犬マジでドン引きなんですけど。しかも、人間みたいに首かしげてたし、みたいな。)
 猫の世界に、殺猫があるか分からないが、もしあったとしたら、猫は猫を猫らしくないと思うだろうか。(うわっ、あの猫やばっ!しかも、人間みたいな顔してたし、みたいな。)
 猿の世界に、殺猿があるか分からないが、もしあったとしたら、猿は猿を猿らしくないと思うだろうか。(こんな猿を猿として生かしておいていいのか!猿の生き方が今、問われる!やっぱり、人間みたいなコミュニティ作ってたし、みたいな。)

 犬や猫や猿たちがおったまげているように、私たちもあるとき人間に驚いていると思う。その妙な驚きをもたなくて済むような生活を送るために。私たちは、どうすればよりお互いを「人間らしい」と思い合えるのか。

 もし、これを見つけたいなら、やっぱり「何もかも、All OK!全部人間らしいです」ってことでいいのかを、問う必要がある。
 思えば、「何が人間らしいのか」は、時代と文化で違うところがある。何をしても「人間らしい」からオッケーって時代や文化もあるにはあるのかもしれない。

 だから、もし、人間について思うことがあるならいくらでも主張していいと思う。ただ、それは、行為というよりは、言葉で伝えることが求められる。なんでかって言えば、それが今の時代と文化だからだ。

 そして、私たちが、もし歴史の言うことを聞く力があるなら、これまで培ってきたものを蔑ろにすることに大きな意味はないと思う。間違いを繰り返すことで、学びが深まるってところはあるとしてもね。だから、まだ戦争をしているところはしている。全部ひっくるめて、とにかく戦争は悪いなんて無責任なことは言えないけれど、しない方がトータルでは、温かいとは思う。

 言いたいのは、これまで、求めてきた「人間らしさ」を踏みにじってまで主張したい「現代の人間らしさ」なんかあるのかってことだ。
 たとえば、「自分勝手な自由を主張したり、自分と自分のごく身近な人の利益だけを求めたりすること」とか。

 ここで、「えっ、でも、弱い立場の人には必要なことじゃない?自由を求めることも、生活をするための利益を求めることも。」そう思った方、さすがです。

 私たちが、気にしなければならないのは、客観的、相対的な弱い立場の人のことでしょう。私が言いたいのは、「自分で自分を弱者って思って、より弱い立場の人間を追いやってくれるなよ」ってことです。

 ここまできて、「さぁ、あなたは、どう生きる?どう戦う?」と問いたい。

 私の主張をする。

 できれば。できればなのだけれど、私は、人間らしさとは「どの人間も大切しようという前提をもって、行動を考えること」としたい。

 たとえば、「その人がいるおかげで『みんな』が生きやすくなる方を選ぶ」のが人間らしさだ。
 みんなには、自分も含まれる。だから、自分も自分以外の人もプラスになる(時間軸はある程度融通がきく)生き方を選ぼうとすることができることが、人間らしさだと思う。

 「いや、それはない」と思うならそれで構わない。自分の思う人間らしさで生き抜いてくれ。

 先に結論に近いことを言ってしまうけれど、私が言いたいのは、この「みんな」のバランスにズレがないかってことだ。
 自分と自分以外のことを「立場」を踏まえてバランスよく考えることができることが、たくさんの人間を大切に生かすコツなのだと思うのだけど、よく分かっていないか、考えていないか、分かっていても気づかないフリをしているのか、生きることに忙しすぎる人が、このバランスを無視していると思う。
 立場って言葉が出たけど、人は常に「役」に立っているでしょう。子ども、学生、父、母、姉、弟、人間、大人とか。その立場が取るべきバランスはある。どうしても。「えっ、なんでよ、それじゃ全然自由じゃないじゃん、私は自由に人間らしく生きたいのだけど」そんな声もあるかもしれない。

 たぶん、その感覚は間違っていない。もう一度自由ってなんだっけを話したい感じになるけれど、そこを少し堪えて……結局、自由ってのは、自分勝手できるってことじゃない。義務教育はあるし、子どもがいれば育てることになるし、生きていればご飯を食べなければならない。

 その辺りのルールの枠組みが現代では、法律となって整備されているわけだ。

 ここで少しまとめると、「どんな行為も、立場を踏まえて、周りにいる人間たち(たとえば国の法律)が許さなければ、それは『人間らしい』とは認められない」ってことだ。

 ただ、一つややこしいことがあって、考え方の上では、「人間らしくない」っていう分別はできる。けれど、現実では「人間」を「人間ではない」という捉え方はしない。どの人間も生きてよいという前提が真実だ。

「人間らしくない人間も、人間として存在していいのがこの世界だ」

 ということは、つまり(そして、これが人間らしさについての、一番の人間らしさ故のところで、かつ美しさすら感じるところなのだが)人間らしさは、私たちが考えて、自分なりに私たちを制御することでしか、実現されないのだ。繰り返しになるけれど、人間はずっと人間であるから、たとえば法の許さない人間らしくないことをしても、「人間は人間である」わけだ。事実では、All OKではないけれど、真実では、All OKなわけだ。

 この「人間らしさは自分で制御するしかない」っていうことの理性っぷりったら、半端じゃない気がしないだろうか。(「人間らしい」と思いたいところだ)

 でも、「いついかなる時も常に人間らしさを意識ながら生きるってのは難しいのではないか」こんな疑問が浮かぶかもしれない。

 これもその通りだ。私たちは、永久的に思考を留めておくことはできない。大体の脳は勝手に反応する。食糧がない人々へ募金をしたって、お腹が空けば食べるし、時にはテレビを見ながらそんなことはすっかり忘れてしまうこともある。

 ここで、知るべきは、人間らしさには段階があると捉えることだ。

 3つに分けて、
「人間らしい振る舞い」
「人間らしくなくない振る舞い」
「人間らしくない振る舞い」
とした。

 そして、「人間らしくなくない振る舞い」の中に「人間らしい振る舞い」は含まれる。

 簡単に説明する。たとえばだけど、

○「人間らしい振る舞い」は、先に言ったような、「『みんな』を考えて、自分のできる範囲でよりどの人間も大切にされると思う行動を選ぶこと」だ。それは、募金かもしれないし、ボランティアかもしれないし、集中して仕事をすることかもしれないし、ただ生きるってことかもしれない。
 「人間らしい振る舞い」には一応、ごく狭い視点で見ると、量や質もあって、これは「みんな貢献度」みたいなものかもしれないけれど、自分も自分以外もより生きやすくなった方が質は高いし、その含まれる人数が多いほど量も多いってことになるだろう。
 ただ、注意したいのは、どんな善も善だし、どれだけの人に携わろうがどの生も価値は同等ということだ。そして、これができることが偉いってわけでは全くない。ただ、したいかどうか、自分が「人間らしい」と思う行為に一般的に言われる善が当てはまるかどうかでしかない。
 当たり前に、その人それぞれの「立場」があっていい。もし立場が考慮されないとしたら、ボランティアに来てもらってる人もボランティアに行かなければならないし、募金で集めたお金が必要な人も募金をしなければならなくなる。(ここに少し人間らしくないことのヒントもあるかもしれない。出来ない人にそれを強要するとしたら、それは人間らしい考えとは言えないだろう。)


○「人間らしくなくない振る舞い」と「人間らしくない振る舞い」については同時に話を進める。
 これらの境界について二つ話す。

 一つ目の境界について。
 一つ目の境界の簡単な基準は「法に反するかどうか」だ。
 要は、「『人権』が侵害されていないかどうか」って話しだ。(たとえば、刑法の個人的法益の「生命、身体、自由、名誉、信用、プライバシー、財産」の侵害)

 ちょっと、「うわっ、出たー!」って感じだけど、できる限り分かりやすく話したい。

 上で、自分が人間らしいと思う人間らしさを主張しろって言ったけど、これは、自分の思う「人権」を主張しろってことに近い。
 自分が、これが「人間の権利だ」と思うことを掲げて生きたらいい。

 そして、その権利は、大前提としては、侵害されることのないものだ。
 けれど、「人権」を振りかざしたときに、それを阻む可能性があるものはある。

 それは、「公共の福祉」と「他の人の人権」だ。

 「公共の福祉」は、要は自分以外の幸福と言ってしまっていいだろう。これを侵害していないかが問われる。たとえば、図書館をぶっ壊したい「これが、僕の自由だ」と掲げてぶっ壊したとして。その壊れた図書館で誰かが困ったり、悲しんだり、迷惑したりしないかが問われるわけだ。
 誰かの人権を直接侵害したかは、見えにくいけれど、そこが問われる。「その自分の人権」と「誰かの人権」を主張し合うのが裁判だ。たとえば、好きなだけ図書館を壊すことがいかに自分に必要だったかをいくらでも並べていいわけだけど、法律に反していれば認められるものではないことになる。

 この人権と人権がぶつかることについては、「一元的内在制約説」で調べるとたくさん説明が見つかる。

 一つ目の境界のまとめを書くけど、誰かの人権を侵害するってことさえしていなければ、「人間らしくなくない振る舞い」になる。反対に侵害すれば「人間らしくない振る舞い」になるってことだ。(ほとんどの人は、法に反さないだろう。通常「人間らしくなくない」に立ち位置を持ってきて生活していることが多いと思う。そして、時折、より人間らしい振る舞いを選択し、人間らしい寄りの人間でいるのだ。人間らしいを選択できなくても、人間でなくはないので、人間であるということだ。)

 ここで、少しおおざっぱかもしれないけれど、「人権について」まとめて書いておく。

 人権には、
「自由権」
精神的自由、経済的自由、人身の自由
「参政権」
国務請求権、参政権
「社会権」
生存権、教育を受ける権利、労働基本権
「幸福追求権」
「平等権」
がある。

 これを、一言で言うと、「誰でも幸福を目指していい」ということだ。
 少し言い換えると、「最低限必要なものがある状態」、「誰にでも在るものをなくさなくていい権利」と言えるかもしれない。たとえば、「自由・平等」、「家族・労働・所有権・公序」などである。

 ただ、「平等」は、誰でも何でも同じですってことではない。平等にあるのは、生きる最低限度の物質と、非物質の均等で、たとえば、「これだけのお金、これだけの物、これだけの仕事」っていうのは、全員に在るものではないから、「選べるよ、選んでいいよ」いいという捉え方の平等になる。ただ、繰り返しになるけれど、「目指すこと」は「全員に在るもの」なので平等が認められる。また、立場の平等もある。たとえば、平等だからって男湯と女湯がなくなるわけではない。
 これは、ある部分では男女を分けるし、ある部分では男女を分けないことが「人間らしい」と認められているからだ。ただ、「選べるよ、選んでいいよ」っていう平等の部分もあって、混浴はあるし、男女がどのような場合においてもお風呂に一緒に入ってはいけませんっていうものではない。

 もう少し補足すると、そもそもこの世で「平等に在ることが可能なもの」は「現物質的なものより、目に見えない枠組みのようなもの」なのは当然と言える。リンゴは全員にはないけれど、果物という枠組みならば全員にあるとか。スカートは全員にはないけれど、服という枠組みならば全員にあるとか。代替が可能なものは代替物で済まされる。最低限の生活も、全員に家はあるけど、豪邸はないというようなところがあるだろう。
 さらに言い直すと「生きるのに最低限必要な『物質』が与えられる平等と、『選べるよ、選んでいいよ』という振る舞い方の自由の平等が認められている環境で生きていいですよ」ってことが、人権と言えるかもしれない。

 要は、「物質も自由も平等にない環境は論外に人権がない」ってことだ(その文化や時代によって最低限の程度と選択肢は変わるとして)。

 ただ、これらの話も大いに分かりにくい。
 もっと平易な言葉で分かりやすく、何が「人間らしくないとされているか」を話していく。

 そこで、「人権宣言集」を見てみた。(イギリス、アメリカ、ヨーロッパ、フランス、ドイツ、ベルギー、イタリア、アジア諸国、日本などの人権に関する宣言が書かれている。)

 何をもって「これが人間だ!」と人々が主張してきたのか、一気に見てしまおう。

 人権の歴史は、「○○をしない」という人を大切にする考えから、「○○がある(してよい)」という人を大切にする考えに変わっていく。(疲れそうな人は、「キーワード」まで飛ばしてくれていいよ。)

 【イギリス】から書き始めるけど、だんだん追従してどこも宣言することは似てくる。新たな表現だけ抜粋して追加していく。

「権利請願 1628」
・勝手に無理やりお金を集めようとしない
・反対する人を無条件に逮捕しない

「人身保護法 1679」
・被告人の拷問をしない
・裁判に参加する人を保護する

「権利章典 1689」名誉革命
・勝手に法律を無視しない
・勝手に裁判所を作らない
・勝手に軍を集めない
・勝手に武装しない
・選挙の邪魔をしない
・気に食わないことを言った人に必要以上の罰を与えない
・犯罪者を保釈するのに決められた金額より多くもらわない(罰金を相手によって多くしない)
・有罪か決まる前にお金をもらってずるい約束をしない

「奴隷制廃止法 1833」
・奴隷にしない

「性別による欠格に関する法律 1919」
・ある場所に女性は入れないようにしない

 【アメリカ】
「ヴァジニアの権利章典」
・暴力や武力での解決をしない

「独立宣言」
・暴虐と簒奪、悪行をしない。

「ヴァジニア信教自由法」→国家と教会を分離した
・好きな宗教を信じていい

「合衆国憲法修正10ヶ条」
・安全を求めていい
・自由をもとめていい
・持っているもの、身体、住居、書類を自分のものと言っていい
・自分の思いを言っていい(無理矢理嘘をつかせない)

「修正13、14、15条」
・権利は人種、体色、過去の服役などで制限されない。

 【フランス】
「人および市民の権利宣言」→人権の不知・忘却または蔑視が公共の不幸と政府の腐敗の諸原因にほかならない。権利が明確になってきたので書いておく。

第一条
 人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する。
第二条
 あらゆる政治的団結の目的は、人の消滅することのない自然権を保全することである。
 すべて政府および社会は、個人およびその幸福を究極の目的とする思想が流れる。
第四条
 自由は、他人を害しないすべてをなし得ることに存する。
 自由は、他人の権利に反しないすべてをなし得ることに存する。
第五条
 法は、社会に有害な行為でなければ、禁止する権利をもたない。
第十一条
 思想および意見の自由な伝達は、人の最も貴重な権利の一である。したがってすべての市民は、自由に発言し、記述し、印刷することができる。
 表現を妨げない。

「人々の市民的および政治的自然権の宣言の草案」
第十九条
 なんらの種類の労働・商業・耕作も、すべての人に禁止することはできない。その者は、あらゆる生産物を製造し、売却し、および運搬することができる。
第二十条
 すべての人は、その奉仕、その時間の拘束を契約することができる。しかしながら自己を売却することはできない。その一身は、譲渡し得る所有物ではない。

 「キーワード」は、「国が勝手に個人の命や人生や仕事や財産を脅かさない、奪わない」ってことだ。(個人が個人を脅かすことはあってはならないが、起こりうる。今だって起こっている。ただ、「これを国は許さないよ、みんなのために」ってのが法だ。)

 立場の構図をまとめると、
◎「支配する人VS.支配される人」という構図があり、「支配=自由と平等の侵害」であり、人権の侵害と捉えることができる。この支配する人とされる人には、国とか個人が入る。

 この支配の何が悪いのかをもう少し別の言葉でも言うと、
◎生きていくために生き延びようとしても、生死の境目を彷徨わされるような状況に強制的にさせられること。この「支配」「不平等」「『違う』人の弾圧」「弱者への脅迫」をなくすことが人権を守ること、人間らしい人間の振る舞いだと思う。

 より端的に言えば、
◎みんなの「みんなを守るルール」に反することが、「人間らしくない」ということに近い。
 みんなに「自分」を含めて考えてみてほしい。そうすると、今度は「自己実現VS.自分以外が思う人間らしい幸せ」との戦いがはじまってしまいそうだけど。たとえば「お前の考える幸せが俺にとっては幸せじゃないから、こうしろ」みたいな。まさに、これこそが「人権VS.人権」なのだ。(これは、親子のパターンで書いておいた→続・人間らしさってなんだっけ。)

 ここまでが、境界の一つ目だ。うんざりするでしょうけど、法と人間と人間らしさをつなぐには、これぐらい書くしかなかった。

 そして、二つ目の境界について。
 これは「法の及ばないところ」について話す。

 「ごめんで済むなら警察はいらない」ってよく言うんだけど、「ですから、警察呼んでないじゃないですか」っていう話の「人間らしくなくない振る舞い」と「人間らしくない振る舞い」の境界についてだ。

 これも、そんなに難しい話ではない。「裁判にはなっていないし、警察沙汰になっていなければいいのか」って話で。

 「裁判にはなっていないし、警察沙汰になっていなければ」ってのが「人間らしくない」ってのはすぐに分かる。要は、バレていなければいいのかって話で。「騙される方が悪い」って言葉もあるけど、それでも、オレオレ詐欺がよくないの自明のことだろう。「裁判になっていなくても、警察沙汰になっていなくても」、バレて手続きさえすれば「裁判沙汰になり、警察沙汰になること」は、やっぱり「人間らしくないこと」と捉えた方がよさそうだ、。結局「法に反する行為」なのだから。

 そして、問題はここからだ。今度は「たとえバレても、裁判沙汰にならなければ、警察沙汰にならなければいいのか」と。連日大人が謝罪会見をするように、一歩間違えれば、大々的に「人間らしくない」ことになり兼ねないことも世の中では日常的に起こる。他にも、子ども同士の悪口の言い合いや、打ったり蹴ったりのおふざけも、細かく見れば人権侵害のし合いまくりである。
 ただ、ここで問われるのは、その出来事(人権侵害)がどれくらい問題視されるかだ。示談で済む場合(警察がかかわってはいるけど)、謝罪で済む場合とさまざまある。ただ一つを取り上げて上げ足を取ったような態度をするのは嫌なのだけど、「温情判決」という言葉で有名な介護殺人事件がある。犯した罪(人権侵害)は決して許されるものではないとしても、しかし、あまりにも虚しさの残る実態があることも事実なわけだ。詳しくは調べて見てみてほしい。
 この辺りは、その人の「人情とか道徳観とか」に左右されるのだろう。お金に困り食べるのにすら本当に困って起こってしまった犯罪、たわいのない子ども同士のやりとりがあるのが現実だ。
 そして、それが起こっていて、「許せる」から気にしないとか、「許せない」から出るとこに出るって話でもない。私たちの問題は、それで「一体どれが、一体誰が人間らしいのか」ってことだ。
 どうやらそう簡単なことではないのだな、と思ってほしいのは、ただ人権侵害しなければいい、人権侵害を大目に見ればいいって話じゃないってことだ。
 ここまできて、見えてきてほしいのは、「あれ?そもそも人権侵害をさせてしまっている誰かがいるんじゃないか?」ってことだ。これは、真実に近いところがあると思う。不確かだけど、いつの時代も文化も、「人権侵害をせざるを得ない状況があったり、知らずにしてしまっていた時代があったのではないか」ってことだ。
 そうなると、上で言ったように、やっぱり「歴史の言うこと」に耳を傾ける必要ってあるんじゃないかって思う。
 近くにいる誰かが、それは「苦しいよ、痛いよ、悲しいよ、辛いよ、人間らしくないかもよ」って伝えなければならない……。

 ああ、そうか。

 それって「あんまりだよ」って言うのは、誰かが教えるしかないんだ。この考えは大事な考えだと思う。
「それって人間らしくないよ」ってのは、人間が決めていることなんだ。
 そして、人間の中にいたい人、その中で生きられている人は、そのある程度決まっている「人間らしさ」を守る。
 人間の中にいたくない人、その中で生きたくても生きられない状況にある人は、「人間らしさ」を守れない、守りたくない。だって、守る筋がないもの。自分しか自分を守ろうとしてくれる人がいないのだから当たり前だ。

 でも、もし、周り(要は、私たち誰でも)が、誰もを見つめて、言葉を掛けるなら。言葉を掛ければいい。助けられそうなことがあるなら、助けてあげればいい。誰かに人権が侵害されないように、自分自身で侵害しないように。

 私たちが人間らしさとして一つできることは、言える立場の人が「それは、おかしい」って伝えることだ。人間として、人間を大切にする思いで言葉を掛けるってことを。それで、もし侮辱罪になるなら仕方ないとも言える。たとえば、そういう人権の主張、戦いを、教師は本気でやっているのだと思ってほしい。たぶん役所の法律相談の人はもうちょっと上手に伝える気がするけど。相手を思うならより言葉も選ぶべきだろう。

 そして、面白いことが見えてくる。結局は、「大人の人権意識が、後世に伝達されていく」これが、人間を人間に成らせる教育ってやつなのかもしれない。よく思い出してみてほしいのは、学校での注意ってのは、人権侵害している行動について注意されているのだ。刑法も含まれるけど、刑法が刑法であるのは、その行為が著しく人権を侵害するからだろう。

 そろそろ、まとめる。

 まとめると。言ってしまえば、それが人権侵害と思うかどうか(「許せるか、許せないか」など)は、最終的には、一人ひとりそれぞれの人間観によるわけだ。
 ここまでくると、人権は考え方次第だということが分かるだろう。
 そして、その通りなのだ。「勝手に○○しないで」という大枠は憲法や法律にあるとして、その先は、その先の「人間らしさがなんなのか」は、はじめの方で「自分の思う人間らしさで生き抜いてくれ」と言ったように、「個の捉え方による」ところが強い。

 ここに書いた話を参考に、自身に問いかけてみてほしい。

 自分は「何を『人間である』として生きるのか」を、そして、自分は「『その人間』らしいのか」を。

 人間らしさってなんだっけ。
 それは、人間誰もの幸せを壊さず、自分の行動をコントロールしたいと思える人のことではないだろうか。